夢の翼番外編7





 試練の洞窟に入ると脇にある蝋燭がいっせいに灯った。
 慎重に歩みを進める2人に襲いかかる敵はなく、真っ直ぐな一本道をひたすら歩くと開けた空間にたどり着いた。
「…なんか簡単ね」
 決死の覚悟で挑んで来たのに何も起こらず、シータは拍子抜けしていた。今では入った時の緊張感は消え、すっかりリラックスしている。
「まだ安心するのははやいぞ」
 ロイは気を許すことなく、空間に視線を走らせる。さすが4年間冒険をしてきただけあって、常に警戒態勢を崩さない。
「あれ、何かしら?」
 シータは空間の中央に2枚の鏡を発見した。
 その鏡は向かい合うようにして立てられていて、ロイとシータには鏡の面を見ることは出来ない。
 空間には鏡以外の物はなく、2人はゆっくりと慎重に鏡に近づいて行った。
「…何も映らない?」
 鏡の間に立った2人だが、その姿は鏡に映らず、鏡は乳白色に濁ったままだった。
「どうしてかしら?」
 不思議に思い、シータは鏡に手をかざして見る。だが、どんなに手を鏡に近づけても映ることはない。
「触れちゃ駄目だよ」
 ロイが注意すると、シータは今にも鏡に触れてしまいそうな手を引っ込めた。
「この鏡何の意味があるのかしら?」
 首を傾げてロイに聞くが、ロイにもわからない。
 試練の洞窟と言われ、わざとらしく開いた空間にある物だから、意味はあるのだろうけれど…
 何も映すことのない曇った表面を見ていると、ふと、鏡の中から懐かしい匂いがした。
「…?」
 鼻をひくひくさせると、それは一層より濃くなり、ロイの記憶を引き出した。
「…シチューの匂い…」
 それはロイの大好物で、母親特製のものだった。他の人では作れない秘密の隠し味が入っていて、この匂いはそれ特有のものだった。
「どうして…?」
 目をこらすと、ぼんやりと鏡に人影が映し出された。その影は2つ、寄り添うようにして立っている。
 影の人物を見極めようとロイは目を細めた。鏡は、乳白色からどんどん透明になっていく。
 人物の姿が鮮明になり、ロイは目を見開いた。
「キャー!」
 その正体に驚く間もなく、背後からシータの悲鳴が聞こえ、振り返ると、
「シータ!」
 シータは鏡の中に捕らえられていた。無数の黒い手がシータを鏡の中に縛り付けている。
 助けようと鏡に手を伸ばす。
「待ちなさい!ロイ!」
 すると、またもや背後から声がかけられ、ロイはその声に逆らえず振り返った。
「…父さん、母さん…」
 鏡の中にいたのは故郷にいるはずの父と母だった。
 ロイは苦しげに2人を見つめる。
 この試練の意味がやっとわかったのだ。
 右には、あんなに会いたいと焦がれた両親と、左には、今何よりも側にいてあげたいと想っているシータと…
「この鏡の中に閉じ込められた人は、ロイおまえしか助けられないんだ。そして助けられるのは、どちらか1つの鏡の中の人だけ…」
 どちらかを選べというのだ!
「さあ、ロイ。どちらを選ぶ!?」
 父の選択を促す声にロイはうつむき目を閉じる。その表情には苦悩の皺が刻まれ、ロイは試練の惨さを感じていた。
「…ロイ」
 そんなロイを見つめられず、シータはうなだれた。ロイを助けようとして足手まといになってしまった。
 あの時と一緒だ。敵国の兵士に襲われているロイを助けようとして何の考えもなしに飛び出したあの時と…
 あの時も今もロイに辛い選択を迫った。この森に残るか、故郷に帰るか…あの時は森に残ることを選ばせてしまった。
 ならば今は…
「ロイ!両親を選んで!そして故郷に帰って!」
 シータは声の限りに叫んだ。鏡を隔ててもロイに聞こえるようにしっかりと。
「シータ…」
 シータの健気な気持ちにロイは心を打たれた。
 両親を助ければ、自分は永遠に鏡の中に閉じ込められてしまうと言うのに、シータはロイの気持ちを考え、自分が犠牲になると言ってくれたのだ。
 ロイはシータに目を向ける。シータは瞳に想いを溢れさせ、じっとロイを見つめている。
 ロイは試練の洞窟に入る前に、何があってもこの森に、シータの側に残るという覚悟を蘇らせた。
 両親を目の前にして少し覚悟が鈍ってしまったが、シータの言葉がロイの覚悟を取り戻してくれた。
 一瞬でも迷った自分が恥ずかしかった、彼女は迷いもせず自分の命を投げ出したのに…
 ロイは両親に向き直り、頭を深く下げる。
「…父さん、母さん…ごめんなさい。俺をどうか憎んでください…」
 許してくださいとは言えなかった。許されることではないと思ったから。ただ覚悟は揺るがない。シータを選んだことに誤りはないと自信を持って言えるから。
 両親は黙って瞳を閉じた。予想がついていたのか、安らかな表情だった。
 ロイはもう一度頭を下げると、シータの鏡に触れた。
 すると2つの鏡は音もなく砕け散った。降り注ぐ破片の中残ったのはシータだけだった。
「…どうして?」
 シータはその場にしゃがみこんだまま、顔を上げない。
「どうして、私を選んだの?」
 静かな声は震えていてロイはシータが怒っているのかと思った。
「私にはロイの気持ちがわからない…どうして両親よりも私を選んだの?どうして、どうして!!」
 勢いよくシータに睨まれ、ロイは息を呑んだ。シータは泣いていた。あふれ出る涙をぬぐうこともせずにロイを睨み付けている。
「…シータ」
「答えて!!」
 体を震わせ問い詰めるシータにロイは答えずにいられなかった。
 自分のシータに対する想いを…
「俺は…」
 それでも躊躇ってしまう。今打ち明ければシータはまた自分を責めるのではないかと不安なのだ。
「俺はシータが好きなんだ」
 それでも打ち明けてしまったのは、シータの瞳に逆らえなかったことと、気持ちを打ち明ける誘惑に逆らえなかったからだ。
「…嘘」
 一瞬の空白後、シータはボソリと呟いた。
 ゆらりとシータの瞳が揺らめくと同時にボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。
「…私が、私がロイと家族の絆を壊してしまったのね…」
 顔を地に伏せ、シータは声を押し殺して泣いた。
 何よりも大切で、叶えてあげたかったロイと家族との再会を破ったのは自分だった。
 ロイは村人のためではなく、ただ自分のためにこの森に残ったと知った時シータの中で何かが粉々に砕け散ってしまった。
 それは育ての母が亡くなってから初めて流した涙であり、これから自分は常に独りで孤独の中を生きていくのだろうという漠然とした決意だった。
 そして、胸の奥底に頑丈に鎖を巻いて決して表面に出さないようにしていた、ロイへの恋心の呪縛が今、解き放たれてしまった。
 今でもロイを両親の元へ帰してあげたいという思いは変わらない。だけどロイの気持ちを聞いて自分の側にいて欲しいという感情が次次に沸いてきて、シータはもうその想いを抑えることができなかった。
 あんなに焦がれた家族の絆を自分も手にすることが出来るのではないかという甘い夢を見てしまったのだ。
「…ごめん、シータ。今この気持ちを伝えるべきではなかった。この気持ちを知ってしまえば、シータが自分を責めてしまうとわかっていたのに…」
 初めて見るシータの涙。故郷を離れた時でさえ、こらえた涙がロイの胸に深く突き刺さる。
 そして愛しい。彼女を独りにしたくない。一緒に生きていきたい…
「…でも、わかって欲しい。俺は、シータと家族の絆を結びたいんだ」
「…ロイ!」
 ロイの真摯な表情が、シータの胸を熱くさせた。
 家族の絆、ロイはシータが望んでやまなかったものを与えてくれると言ってくれた。
 それはどんな宝石や愛の告白よりもシータには嬉しいものだった。
 拒むことがどうしてできるのだろう。
 シータは震える腕と心をロイに伸ばした。
 ロイはしっかりとシータの体も心も、全てを抱きしめてくれた。
「ロイ!どこにもいかないで、私の側にいて!」
 ロイの体にしがみつき、シータは子供のように叫んだ。
「どこにもいかないよ。俺はずっとシータの側にいる、俺がシータの居場所になるんだ…」
 ロイの言葉に安心してシータは手を緩める。
 ロイの体と自分の体がピッタリとくっついていて、シータは恥ずかしいんだか嬉しいんだかわからない。
 不思議な感じ。
 今まで、どんな人と接してもどこか取り残されたような淋しさや不安が付きまとってきた。
 それは育ての母が亡くなりいっそう強まっていったけど、ロイにはそんな不安が一切ない。
 シータは産まれて初めて、人のぬくもりを感じていた。
「私、ロイのことが好き…」
 始めはロイの持つ家族の絆が羨ましかった。
 家族を捨て、森に残ると聞いた時はロイの家族への気持ちが軽いのだと思い込み落胆した気持ちもあった。
 だけど、ロイの優しさ、強さがシータの心に染み渡って、いつの間にか好きになっていた。
 ただ、それを認めたくなかった。
 ロイはやがて故郷へと帰ってしまう。育ての母のように置いて行かれるのはもうたくさんだった。
 だが、ロイは自分を選んでくれた。側にいると言ってくれたのだ。
 もう迷うことはない、素直にロイを受け入れればいい。
「シータ」
 シータの想いを聞いて、ロイの歩みを遮るものは何もなくなった。
 後は、長の証を手に入れるだけだった。



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