雪降る聖夜に9





 ブラブラと意味もなく校舎を歩き回っていた平太だが、屋上の踊り場に膨大な光を見つけ、嫌な予感がして踊り場へと走り出した。
 泉の見せた笑みと意味深な言葉が平太の中でずっと引っかかっていた。
 泉が何かをしでかしそうな予感を平太はずっと感じていたのだ。
「平太!!」
 踊り場への階段を昇ろうとしたら、誰かが胸に飛び込んできた。その明るい声に平太の心臓が飛び上がる。
「明日香!!」
 何と明日香が鏡の中にいるではないか。
「どうして…」
「泉君と体を交換したの」
「泉と!?」
 驚いて平太は明日香を残し、鏡の前に向かう。
 すると鏡の外で明日香になった泉が微笑んでいた。
「ありがとう、平太、明日香。僕はやっと自由になれたよ」
「泉!!」
 怒鳴る平太から逃げるように、泉はスカートをひらめかせて鏡から遠ざかる。
 その余裕とも取れる態度に平太は唇を噛む。
「そんな顔をするなんて平太らしくないよ。いいじゃないか、明日香と一緒にいたかったのは平太も一緒だろう?」
 明日香の顔で微笑まれ、平太は胸くそが悪くなった。
 確かに自分が明日香と一緒にいたいと思っていたことは認めるが、明日香が鏡の世界に閉じ込められるなんてことは少しも望んではいない。望むわけがない。
「いいから、今すぐ明日香を元に戻すんだ!!」
 激昂する平太を見て、泉は勝ち誇ったように目を細めた。いつもは我関せずの姿勢を崩さない平太が感情的になっているのが泉は楽しかった。
「嫌だよ。それに明日香も僕と同じ気持ちだと思うけど?」
 意地悪そうに微笑み、泉は平太の後ろに立つ明日香に視線を向ける。
 いつの間にか平太の背後に立っていた明日香は、自分以外の人間が自分の姿をしていることに違和感を覚えた。
 しばらく、それが泉ということにも気づかなかった。
「明日香?」
「…あっ!ああ、そう。平太、泉君と交換することは私が望んだことなんだよ。だから、いいの。私はここで平太と暮らすから」
 泉に声をかけられ、我に返った明日香は慌てて自分の意思で交換したことを平太に伝えた。
「ほらね」
 明日香の答えに泉が満足そうに笑う。
「ふざけるな!こんなこと許してたまるか!!」
 だが、それで平太が納得できるわけがない。
 たとえ、交換したことが明日香の意思でも、それを許すわけにはいかないのだ。許してしまえば、明日香までも鏡に閉じ込められ、平太のように死んでいながら生きていかなければならない。
 明るく快活な明日香にそんなことをさせたくなかった。明日香はこんなジメジメとした校舎よりもカラリとした太陽の下が似合う少女なのだ。
 そして何より自分のせいということが、平太を辛くさせるのだった。
「そんなこと言っても、もう交換しちゃったしね。交換できるのはクリスマスだけだし、僕が逃げて、二度とここに来なければ交換しようもないよ」
 聞き分けのない子供を諭すように泉がゆっくりとした口調で平太に話す。からかわれたようで平太は無性に腹が立った。
 しかし、泉の言った衝撃的な事実のほうが平太には重要だった。
 交換はクリスマスにしか出来ない。そして、泉が今逃げてしまえば明日香が元に戻ることが永遠に出来なくなってしまう。
 平太は焦り、鏡を通り抜け泉を捕まえようとする。
「っ!」
 しかし、鏡を通り抜けることは出来なかった。平太を阻むように鏡はそびえ立っている。
「無駄だよ、平太」
 鏡を叩いたり、体当たりしている平太に冷めた目を向け、泉は勝利を確信した笑みを浮かべる。
 やっと泉は体を手に入れたのだ。
「それじゃあね、バイバイ」
 手を振り、泉は軽やかな足取りで階段を下りて行く。
「くそっ!くそっ!」
 遠ざかって行く足音を聞きながらも平太の手は休まることがなかった。無駄だとわかりつつも諦めることなんて出来ない。
 しかし、その背中に温かい感触を感じ、平太は手を止め振り返った。
「もういいんだよ、平太」
「明日香…」
「私はここにいたい。平太と一緒にいたいの」
 澄んだ瞳で見つめられ、平太は黙った。
「もう、ずっと一緒だよ」
 背中に顔を埋め、明日香は祈るように囁いた。

 差していた傘を乱暴に投げ捨て、幸太郎は土足のまま校舎へと入って行った。
 クリスマスに新調したスーツは雨ですっかり濡れていて、歩くたびに靴がグチャグチャと不快な音を立てている。
 廊下に点々と水滴がたれているのに幸太郎は構わず、ただ一箇所を目指していた。
 雨の音が校舎に響く中、幸太郎は怒りとも落胆ともつかない感情を胸に渦巻かせていた。
 明日香は平太の元へ行ったのだ。
 それは、考えればあまりにも簡単にたどり着く事実だった。
 幸太郎にはわかっていたのだ。明日香が平太を諦めきれてないことが。
 しかし、明日香は自分とクリスマスを一緒に過ごすと約束してくれた。幸太郎は、その約束に希望を持ち、明日香を待ち続けた。そう、去年の明日香のように…
 明日香は来なかった。平太を選んだ。
 そして、幸太郎は学校に来た。明日香がここにいることを確信して。
 2人と会って、どうするのか幸太郎は決めていない。ただ足が勝手に動いてしまった。
 感情をまとめられないまま、幸太郎の足は動き続ける。
 3階への階段にたどり着くと、上から早足で駆け下りて来る足音が聞こえてきた。
 こんな真夜中、しかもクリスマスに校舎にいるのは明日香ぐらいなものだろう。
 高ぶる感情を抑えきれず、幸太郎は階段を駆け上がった。階段の踊り場で下りてくる人物を待つ。
「っ!」
 駆け下りてきたのは想像通り、明日香だった。明日香は幸太郎に気づき、足を止め、驚愕の表情を浮かべている。
 明日香も幸太郎と同じく、濡れていた。少しは雨の中を濡れていたのだろう。自分との約束をとるか、平太の元へ行くのか、少しでも明日香の中で葛藤があったのなら、幸太郎はもうそれで良いような気がした。
「明日香」
「近寄るなっ!」
 階段に足をかけると明日香は幸太郎を全身で拒否するような悲鳴を上げた。
「っ!!」
 傷つき、怒りが体中を駆け巡る。
「近寄るな!!これは、もう僕の体なんだ!!」
 しかし、明日香の瞳にギラギラと輝く野生の獣のような輝きが幸太郎を正気づけた。
 おかしい…
 明日からしかぬ言動や表情に幸太郎に疑いが生じる。自分がここに来るまで平太と何かしらのトラブルがあったのではないのだろうか、と。
「何があったんだ?明日香」
 しかし、まさか明日香が泉だとは思いもしない幸太郎は、とにかく明日香を落ち着かせようとゆっくりと階段を昇り始めた。
「明日香!!」
 しかし、明日香は身を翻し、階段を駆け上がった。逃げられ、幸太郎は茫然自失するが、すぐに明日香を追いかけ始めた。
 今、明日香を捕まえなければ、何か大切なものを失うような気がしたのだ。もう、明日香が戻ってこないような錯覚を受けた。
 それは、明日香の走る姿を見て強まった。いつもは軽やかなフォームで流れるような走りの明日香が、今はぎこちない不器用な走りをしていた。まるで、走る事になれていないようだった。
「明日香っ!!」
 そんな明日香を捕まえる事は簡単だった。腕を掴み、窓際に追い詰める。すると明日香は子供のようにジタバタと暴れ始めた。
「くそっ!離せよ!!」
 言葉遣いが決して良いとは言えない明日香だが、今は持ち前の明るさが消え、ひどく不快な感じだ。
 幸太郎を睨む目は、この暗闇のも負けないくらいの底光りを見せている。
 幸太郎はぞっとして、掴んでいる手を強めた。明日香が傷みにうめくが、幸太郎にはそれに気遣う余裕はなかった。
「…お前、誰だ?」
 自分でもバカな質問をしていると思う。だが、聞かずにいられなかった。心の底から湧き上がってくる、恐怖と不審に耐えられなかった。
 明日香は幸太郎の質問に目を見開いた。まさか、こんな簡単に正体が見破られるなど思いもよらなかったのだ。
 そもそも、泉は体を手に入れた喜びで舞い上がっていて、幸太郎に会った時の対処を間違えていた。あの時、逃げてはいけなかったのだ。明日香のフリをすれば、幸太郎など簡単に騙せていたのに。
「…」
 自分の失敗に気づき、泉は舌を鳴らした。
「僕が誰でもいいじゃないか。僕は僕だ。この体の中にいる僕がこの体の主なんだ」
 開き直った泉は、静かに笑みを湛えた。異常なほどに見開かれた瞳は狂気を含んでいる。
 幸太郎は震える息を吐き、離したくなる手をかろうじて耐えた。
 今、目の前にいる得たいの知れない存在が怖かった。逃げ出したくなる衝動を抑え、幸太郎はゆっくりと歯のかち合わない口から言葉を出した。
「明日香はどこにいる?」
 幸太郎の質問に泉は唇を歪め、黙ったままだ。
「どこだ!?」
 手に力を込め、強く問いただすが、泉の人をどこか小ばかにした微笑は崩れない。
 口を割らない泉に幸太郎は、耐え切れず泉から視線をそらした。明日香の顔で、そんな明日香がしない表情をされるのは胸がムカムカするし、何より傷つく。それに自分は明日香にこれ以上乱暴することが出来ないのを、相手に完全に見抜かれていた。
「ちくしょう、平太がいれば…」
 呟き、幸太郎は閃いた。
 明日香がいるところ、そんなの平太の場所しかないではないか。
 幸太郎の閃きが通じたのか、泉は顔色を変え、再度暴れ始める。しかし、そんなもの幸太郎にとっては意味のないものだ。
 幸太郎は引きずるように泉を連れ、歩き始めた。
 平太と明日香のいる場所、鏡に向かって…



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