雪降る聖夜に8





 いつもの習慣で、つい鏡の前に来てしまう。
 もう誰も来るわけがないのに。
 そう思い苦笑しながら顔を上げると、そこには幸太郎が座って平太を待っていた。
「よう、平太」
 何事もなかったように手を上げる幸太郎に、平太は驚きを隠せなかった。
 動揺する珍しい平太を見て、幸太郎が小さく笑う。こういう時でなかったら、無邪気にからかえたのに。
「俺、クリスマスは明日香と過ごすから」
 しごくあっさりと幸太郎が言うので、一瞬平太には幸太郎の言っている意味がわからなかった。
「…ああ」
 間の抜けた返事を返すが、今度は幸太郎は笑わなかった。
「…ただ、それだけ」
 感情を無理矢理押し殺した声の幸太郎に、平太はただ呆然と立つことしか出来ないでいた。
 座ることすら出来ない平太を一瞥し、幸太郎はその場を去ろうとした。
「…明日香を頼む」
 だが、平太の想いのこもった言葉を聞いて幸太郎は耐えられずに振り向いた。
「おまえがそれを言うのか!?」
 震える拳を鏡に叩きつける。
「明日香を泣かすおまえがそれを…」
 怒りをぶつけてくる幸太郎に平太は唇を噛みしめこらえる。
 自分は幸太郎に、明日香に憎まれて当然なのだ。明日香は昨日、平太と別れてからどれだけ泣いたのだろう。そして幸太郎は、どんな想いでそれを見つめていたか。
 じっとこらえる平太から幸太郎は視線を落とす。
 鏡に置いた手は震えていた。
「…おまえが生きていてくれれば」
 本人ももらした自覚のない言葉に平太は空を仰いだ。
 今の表情を幸太郎に見られたくなかった。ひどく情けない顔のはずだ。
「…ごめんな」
 口をついて出た言葉に幸太郎は謝る。
 言ってはいけない一言だと思った。言うだけで平太に、言った自分にも傷をつける言葉だった。
 幸太郎はそれ以上、何も言わずに去っていた。
 残された平太の心にはぽっかりと穴が開いた。大切な何かをついに失ってしまったみたいだ。
 今にも消えてなくなりたい気分だった。

 ああ、雨の音がする。
 24日のクリスマス、明日香は雨の音で目を覚ました。
 カーテンを開けるとどんよりとした雨雲から大粒の雨が降り注いでいた。
「…雨か」
 空を見上げ明日香は溜息をつき、開けたばかりのカーテンを閉めた。雨など見たくなかった。
 学校に行く気も起きず、明日香は私服に着替えるとそっと家を出た。あの暗い過去を思い出す部屋にもいたくなかった。
 雨の中をあてもなく歩いた。
 今日は幸太郎と一緒に過ごす約束をしていたのだが、どうもそんな気分になれない。
 かと言って行く場所もない。平太の元へも行けない。
 パラパラと雨粒が傘に落ちる音を聞きながら、明日香は去年のクリスマスのことを思い出していた。
 去年は傘もささずに、ただ平太を待っていた。
 来ないと知っていても待たずにいられなかった。それほどに好きな人だった。今もその想いは変わらない。
 暗い気持ちで足の赴くままに歩いていると、明日香はある場所にたどり着いた。
「…ここ…」
 見慣れた場所にたどり着き、明日香は目を見開いた。いつの間にか自分は去年の待ち合わせの場所に来ていたのだ。
 無意識のうちだった。足が勝手に動いたのだ。
「…そっか、そうだよね」
 自分の想いは未だに変わらない。決着がついてない。去年のクリスマスと同じようにずっと平太を待ち続けている。
「終わらせなきゃ…」
 平太は来るなと言った。でも今会わなければ、明日香の心はずっとこの場所で立ちつくしたままだ。
 今なら幸太郎との約束に間に合う。約束を破られる痛みを明日香は知っていたが、今平太に会わなければ明日香も幸太郎も前へ進むための一歩を踏み出せないような気がした。
 明日香は踵を返し、学校へと向かった。

 すっかり暗くなってしまった校舎の中を明日香は走った。
 鏡の前に平太がいるなんて希望を抱いてはいなかった。でも鏡の前に人影を見つけ、明日香は一瞬期待してしまった。
「…泉君」
 しかし、それは平太ではなく、泉だった。
 あからさまに落胆の表情を見せる明日香に泉は気にする風もなく、明日香がここに来たことへの喜びを顔に表す。
「待ってたよ、明日香」
 無邪気に微笑まれ、明日香は戸惑う。泉が明日香を待っている理由がわからない。
 泉はこの暗い中、明日香を待ってずっと鏡の前に佇んでいたのだろうか。そう考えると、明日香は少し気味が悪くなった。
「クリスマスの奇跡、教えてあげようか?」
 不審気な明日香に泉は一歩踏み出す。明日香はそれに押されて一歩後退した。
「わっ、私、平太に会いたいんだ!」
 いつもと違う泉に気圧されながら、声を絞り出すと泉は薄く微笑む。
「知ってるよ。だから、そんなに焦らないで僕の話を聞いてよ」
 明日香の言葉を聞いてくれない泉に明日香は憤りを感じながらも、どうにもすることができない。自分は鏡の中に入れないのだから。
 そんな明日香を見て、泉がクスリと笑みを浮かべる。そして両手を広げて明日香を迎え入れるように泉は囁いた。
「クリスマスに起こる奇跡。それはね、鏡の中と外の人間の体を交換できるんだよ」
「えっ?」
「明日香、僕の体と交換しようよ」
 重大なことをあっさりと提案してくる泉に明日香は二の句を告げなかった。
 そんなことが本当に出来るのか、明日香には半信半疑だった。
 まるで子供の戯言のような話だ。
「そうすれば平太とずっと一緒にいられるよ」
 疑わしげに泉を警戒していた明日香だったが、天使のような子供特有の笑顔で囁かれ、その甘い誘いに抗うことが出来なかった。
 平太と一緒にいられる、それこそ明日香が夢見たことだった。
「…どうすればいいの?」
「鏡に手を当てて…」
 震えている明日香を安心させるような優しい泉の声に、明日香は意を決したようにゆっくりと手を鏡に当てた。その手に泉の手が重なる。
 すると重なった掌からまばゆい光が溢れ出し、一面を覆い隠した。
「っ!」
 悲鳴を上げる間もないまま、明日香は鏡に引き込まれる感覚を受け、気を失った。



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