雪降る聖夜に7
明日香を残し階段を下りると、そこにはリフティングをしている泉の姿があった。
「1…2…3…あっ!」
わずか3回でボールは泉の膝から離れ、転がり落ちてしまう。
平太は足元に転がってきたボールを拾い上げ、泉に近づく。
「お姉さんと話はもうすんだの?」
子供らしくない何かを含んだ笑みで泉が聞いてくる。泉は2人の会話を聞いていたのだ。
泉が明日香との会話の全てを聞いていたことに別段腹を立てることもない。
ただ、平太の中には虚しさだけがあった。
ボールを泉の胸に押し付け、平太はそのまま歩き去ろうとする。今は誰とも話したくない気分だった。
「…何でついてくるんだ?」
それなのに泉はボールを胸に抱えたまま平太の後をついてくる。
「別にいいじゃん」
「リフティングの練習をするんじゃないのか?」
「今じゃなくてもいいもん」
サラリとかわされ、平太は溜息をついて泉を巻くことを諦めた。
トボトボとあてもなく静かな校舎を歩く。
いつの間にか降ってきたのか、雨が廊下の窓を叩いていた。
「…平太はさ、いつもそうだよね」
ポツリと泉が話し出す。
「すぐに諦めちゃう。望めば手に入るものだって手に入れようとしないんだ」
感情を隠した瞳は胸にあるボールをぼんやりと眺めている。
「…そうかもな」
泉が何を言いたいのか分からず、だがそれも平太にはどうでもいいことだった。
平太は何にも興味を持たない。執着しない。
生まれた時からそうだったのではない。そうしようと努めてきたのだ。
大降りになった雨に平太は目を向ける。
雨雲に覆われているおかげで廊下はすっかり暗くなっていた。
泉の表情も満足に捉えることは出来ない。
だからかもしれない。平太は今まで誰にも話したことのない、平太が今の平太になった所以を語り始めたのは。
「俺がこんなになってしまったのは、簡単な理由さ…」
足を止め窓から空を見上げると、泉が平太の傍らに寄り添ってきた。
「両親が事故で死んだんだ。それだけだ…」
淡々と苦笑と共に吐き捨てた言葉に、どれ程の想いが詰まっているのだろうか。
そんなこと平太にもすでに忘れてしまったことだ。
平太の両親は元来仕事に忙しい人たちだった。家に戻らず会社に寝泊りするのが普通で、平太とは滅多に顔を合わせる事もなかった。
両親が事故で死んだのは、平太の誕生日だった。いつも平太の誕生日には仕事を終わらせて家に帰ってくると約束していたのだが、仕事の都合で両親と誕生日を過ごしたことを平太はなかった。
どうせ今年も約束を破るんだと諦めていた誕生日。
だが、あの年の誕生日だけは違った。両親とも無理矢理休みを取って平太の誕生日プレゼントを買い、一緒に平太の待つ家に帰ろうとしていたのだ。
そして事故にあい、帰らぬ人になってしまった。
その日から平太は何もかもを諦めた。
人を待つことも約束をすることもなくなった。
今まで死んだようにダラダラと意味もなく生きてきた。
「…何でここにいるんだろうね、僕たち…」
泉の言葉は自分にも疑問だった。
どうして生きながら死んでいた自分が死んでまで生きているのだろうか。
この世に未練などないはずなのに…
「いや、あるか…」
ここにいる訳、それは明日香だ。
たぶん自分が思っている以上に平太は明日香が好きなのだ。それなら生きている時に明日香の想いに答えれば良かったのに。
平太は自分に呆れ、笑みを零した。
何の未練も残さないように生きていたはずなのに、どうして死んでしまってこんなに悔いが残っているのか。
約束を破られること、人に置いて行かれることの苦しみを平太はわかっていたのに。
あの時、明日香とクリスマスを過ごす約束をしなければ明日香はこんなにも傷つかずにいたはずだった。
中途半端に明日香の気持ちに答えようとした自分がバカだった…
平太は自虐的になっていく自分を止められず、空から視線を逸らした。
「…泉?」
逸らした視線の先に泉がいた。
泉は水晶のような瞳で平太を見ている。
「僕が死んだのは雪の日だったよ」
凍ったままの表情で泉は話し出す。平太は泉の目に見えない迫力に押されていた。
「僕は病弱だった。ずっとベッドの中にいたよ。友達はクリスマスの10日前だけ会える鏡の精だけ」
ボソボソとしゃべる泉の声は何故か雨の音にかき消されずにはっきりと平太の耳に届いてくる。
平太は泉から目を逸らすことが出来ずに、ただ泉の言葉を待った。
「ある雪の日、僕は自分が死ぬことを意識した。でも僕は生きたかった。元気に駆け回りたかった。そんな時鏡の精が言ったんだ…」
ふっと泉の声が途切れる。瞬間、泉がニヤリと唇の端を吊り上げた。
「僕と体を交換してあげるよって」
魔法の効力が切れたように雨音が大きくなる。
「…泉…」
囁いた言葉は雨音にかき消される。
泉は何事もなかったように、いつもの泉に戻っていた。
「クリスマスは雪になるといいね!」
無邪気に微笑み、泉はボールを抱えたまま廊下を走って行く。
残された平太は呆然とその姿を見送った。
握った掌には汗がびっしりとかいていた。
屋上へと続く踊り場を雨の音が支配していた。
雨は嫌いだ。
あの時を思い出してしまうから…
どしゃぶりの中、来ない人を待っていた。夜の闇に包まれて立ち尽くしていた自分。
今もまだ、あの人を待っている。
今年こそ約束のクリスマスを一緒に過ごせると思っていたのに…
「…平太」
涙混じりの声では雨にかき消されてしまう。自分の想いも雨に消され届かないのだろうか。
でも、もうその声を届けたい人はいない。また消えてしまった。去年と同じように。
雨がうるさかった。
こんなにうるさかったら、何も聞こえなくなってしまう。みんな、みんな雨に消されてしまう。
「明日香!」
しかし、そんな中でもはっきりと届く声があった。
「…幸太郎」
顔を上げると、あの時と同じく息を弾ませている幸太郎の姿があった。
冷たい雨の中、幸太郎だけが自分を探し当ててくれた。動けない明日香を迎えに来てくれた。
「っ!!」
言葉にならない声をあげて明日香は幸太郎にしがみつく。
もう嫌だった。来ない人を待ち続けることが。いつまでもこの想いに捕らわれていることが。
「うぅ…」
幸太郎のジャケットをきつく握り締め、声を殺して明日香は泣いた。
幸太郎は何も言わずに明日香を抱きしめてくれた。きっと状況を把握したのだろう。その手はとても優しかった。
幸太郎は温かいのに明日香の心は凍てついたままだ。
胸の奥、凍りついたままの想いが溶けない。寒くて寒くて死んでしまいそうになる。
「今年のクリスマスは俺がいるから」
耳元で囁かれた言葉に明日香は助けを求めるように頷いた。
誰でもいいから側にいて欲しい。
もう平太は側にいてくれないから。