雪降る聖夜に6
階段を昇る足跡を聞き、平太は閉じていた瞳をうっすらと開けた。
寝ていたわけではない。鏡の世界では睡眠欲もなくなっていた。
「幸太郎か…」
屋上の踊り場なんかに来るのは幸太郎か明日香ぐらいしかいない。少し乱暴に靴音を響かせて歩くのは幸太郎のほうだった。
「よう、平太」
親しげに手を振って来る姿はいつもと変わらない。
だが、どこか白々しく見えてしまうのは自分が変わってしまったせいなのだろうか。
「ああ…」
軽く手を振り返す動作もどこかぎこちなかった。
幸太郎は鏡の前に座り込むと、なれた手つきで煙草に火をつける。いつもは明日香がいる手前遠慮しているが、平太には気を使う必要もない。そんな気楽さに居心地の良さを感じていたが、今はその見る影もなかった。
「…」
お互い話すこともなく、踊り場にはいつもの静けさが漂っている。
幸太郎は数回煙草を吸い、まだ捨てるには早い煙草をコンクリートの床に擦り付けた。
「…平太」
朝会った明日香の笑顔を思い出し、幸太郎は口を開く。
「…」
だが、今自分が抱いている感情をどう話していいのかわからず、言葉はそこで途切れてしまう。
平太は相変わらずのポーカーフェイスだ。
感情の読めないその表情に腹が立つ傍ら、いつも通りの平太に安心してしまう。
「…明日香をどう思う?」
結局直球になってしまった。他にどう聞けばいいのか見当もつかなかった。
「…どうって?」
「好き、なんだろ」
チラリと平太を横目で見ると、平太は微かに口元を吊り上げた。自嘲したような笑みに幸太郎は眉をひそめる。
「今更だ、それがどうなる?」
全てを諦めたような物言いに、幸太郎はますます眉間の皺を深めた。
「明日香の気持ちも知ってるんだろ」
幸太郎があぐらをかいた爪先を握る手にギュッと力を込めたのを見ながら平太は幸太郎の気持ちを考えていた。
幸太郎が明日香を好きなのは始めから気づいていた。明日香の気持ちも手に取るようにわかった。
そして自分の明日香に対する想いも…
「俺は死んだんだ」
それが今の平太の全てに対する答えだった。
「…」
再び踊り場に沈黙が下りる。
平太の一言が幸太郎の胸を締め付け、悩ませた。
…俺は死んだんだ…
平太にはもう何も出来ない。明日香の想いに答えることも、明日香を見守ることすらも…
「…平太が死んで明日香の落ち込みようは凄かったぜ。話は一切しない、食事もろくにしない。まるで死んでるみたいだったよ…」
幸太郎の瞳が微かに揺れる。平太は黙って幸太郎の話を聞いた。
「…実際死にたかったんだろうな、明日香は。平太の後を追いたかったんだよ、きっと…」
あの時は寒かった。心が凍ってしまうのではないくらい寒かった冬。明日香の部屋も明日香の心のように冷え込んでいた。
「…少しずつ立ち直ってさ。やっと笑顔を作れるようになったんだ。まだ完全じゃないけど、あの時に比べたら見間違えるほど元気になったよ」
幸太郎は顔を上げ、真っ直ぐに平太を見つめる。視線がぶつかり合う。平太の瞳は少し濁って虚ろだった。
「俺はもう、あんな明日香を見たくない。平太、何で今頃俺たちの前に現れたんだよ。また明日香を泣かすためなのか?」
静かに、だがはっきりと踊り場に幸太郎の声が響く。
平太の表情はピクリとも動かなかった。いつもの感情のない表情。死んでも平太は変わらないみたいだ。
「…もう明日香を苦しめないでくれ」
言いたいことを言いきり、幸太郎はその場を立ち上がる。
もう、この場所にはいたくなかった。平太を傷つけたかもしれない。だが、それ以上に明日香を傷つけたくなかった。
黙って去って行く幸太郎に平太は何も言うことはなかった。
幸太郎の言う通りだと思う。
平太はまた明日香を苦しめてしまうだろう。
何故なら、自分は死んでいるのだから…
平太は知らずに込めていた力を体から抜き、鏡にもたれかかった。
目を閉じても睡魔はやってきてくれない。今は、ただ眠りたかった。だが、それすらも平太には許されないことだった。
コンコンと鏡にノックされ、平太は目を開いた。
「平太?起きてる?」
明日香が鏡越しに平太の顔をのぞき込んでいる。
「寝てないよ」
平太は鏡から体を起こし、明日香に向き直る。
「幸太郎はどうしたの?」
先にいるはずの幸太郎の姿が見えず、明日香は平太に聞く。
「…用事があるからって」
「用事?何だろう?」
明日香は首を傾げつつ鏡の前に座り込む。
幸太郎がいないことで平太と2人きりになれたことが明日香は嬉しかった。自然と顔がにやけてしまう。
そんな明日香の心情が手に取るようにわかり、平太は頬を緩ませるが、幸太郎とのやりとりを思い出しすぐに表情が曇る。
「ねえ、平太。もうすぐクリスマスだよね」
明日香がニコニコしながら話し出す。
クリスマスの話題が出て、平太の心がザワリと動き出す。
去年のクリスマスは明日香と過ごすと約束しておきながら破ってしまった。
破りたくて破ったわけではない。でも、破ったのは事実。その結果明日香に深い傷を負わせたのも確かなことだった。
「…クリスマスか」
苦々しく呟く平太だが、明日香の表情は明るい。
「そう、クリスマス!楽しみだよね!!」
クリスマスを心待ちにしている明日香を平太は意外そうに見つめる。明日香にとってクリスマスは辛いものだったはず。
そんな平太を見て明日香はクスリと笑みをもらす。
「ねえ、平太。去年の約束、今年こそ守ってよね!!」
鏡に身を乗り出し、明日香は満面の笑みを浮かべる。
その瞳は今年のクリスマスは平太と過ごせると疑いもなく信じきっていた。
平太は虚をつかれ、頭の中が真っ白になってしまった。
「…約束?」
「そう、去年破った分今年は絶対に守ってもらうからね!」
無邪気な明日香の笑い声が平太の頭に響く。
『…もう明日香を苦しめないでくれ』
それと同時に幸太郎の真剣な眼差しを思い出し、平太は目を細めた。
不覚にも泣いてしまいそうだった。
クリスマスを一緒に過ごせると単純に喜ぶ明日香。そんな明日香が再び同じ傷を負うのではないかと心配する幸太郎。
幸太郎の危惧は正しい。おそらく平太は、また同じ傷を明日香に負わせることになるのだろう。
平太は立ち上がり、明日香に背を向ける。
「…平太?」
「クリスマスは一緒に過ごせない」
「えっ…?」
「クリスマスだけじゃない、もう明日香とは会わない」
平太の冷たい言葉に明日香は目を見開き、その瞳には涙が浮かび上がってくる。
「…どうして?」
問うが、平太は何も答えない。振り向いてもくれない。
「もう、ここには来るな」
感情の一切ない声で吐き捨て、平太は歩き出す。
「平太!!」
追いかけようとするが、鏡に阻まれてしまう。こんな薄っぺらい鏡が2人を隔てているのだ。
「平太!平太!!」
幾ら叫んでも、鏡を殴っても平太は立ち止まらない。距離は開くばかり。
「…うぅ」
ついに平太の姿が見えなくなり、明日香は力果てたように床に突っ伏した。
身を震わせ、明日香は泣いた。
「…寒いよ」
傷がうずき出す。平太がつけた傷が、ジクジクと寒さにただれてゆく。
涙は止まることなく溢れてゆく。
「…どうして…」
囁く言葉に答える者は誰もいなかった。