Angel Hand(前編)





 もう、限界だ。
 一ノ瀬 綾(いちのせ あや)は貧血にあっていた。
 頭の中がグラグラ、ズキズキするし、気を抜けば今にも倒れてしまいそうだ。
 しかし、今は夏休み前の全校集会の最中、倒れるわけにはいかない。
 綾は幼稚園の頃から、式や集会などには必ず倒れているのだ。この屈辱的な記録を止めなければ。
「うぅ〜」
 冷や汗が背中ににじみ出てきた。世界がチカチカと点滅して、目の焦点が合わない。
「おい、綾。大丈夫か?」
 後ろに並んでいる市川 忠宣(いちかわ ただのぶ)が心配そうに聞いてくる。
 彼とは今年の2年になった時、出席番号が後ろになった縁で、虚弱な綾の面倒を見ることになってしまった可哀そうな奴だ。
「…」
 もうすでに返事をする元気もないが、綾は少し振り向き忠宣に向かって微笑んで見せた。
 綾にとっては忠宣を安心させるためのものだったかもしれないが、青い顔に虚ろな目、笑みを刻んだ唇は引きつっていて、見ている者を一瞬で恐怖に落とすのには十分だった。
 だが、忠宣はなれたもので、少し身を引いたものの気を取り直して綾に話しかける。
「おい、おとなしく先生を呼べ。お前が倒れたら俺が保健室まで運ぶことになるんだぞ」
「・・大丈・・夫…」
 弱弱しく微笑むが、全然大丈夫ではないのは一目瞭然だった。
「大丈夫ですか?」
 隣りから小声で話しかけられ、綾はグラグラと揺れる体を刺激しないようにゆっくりと振り返った。
「!!」
 その女性を見た瞬間、綾は女神を見たような気がした。女神を真ん中に天使が祝福のラッパを吹いている。
 お迎えが来たのではと勘違いした綾だったが、女神が制服を着ていることでこの学校の生徒であることがわかった。
 見知らぬことも無理はない。その生徒は綾とは違う学年の3年生なのだ。
 綾はE組で2年生の1番端のクラスなので、隣は3年A組になるのだ。
 綾はこの突然の運命の出会いの喜びのあまり、張った気を緩めてしまった。
 しまった!
 再び意識を取り戻そうとするのも遅く、綾はゆっくりと自分の体が崩れ落ちていった。
 薄れていく意識の中、綾は心配そうに覗き込む女神の顔を見て、至福の笑みを浮かべた。
 その笑みは凄然としたもので、女神がその笑みに耐えられたのかは幸運にも綾が見届けることはなかった。

「ばかやろー!だから先生を呼べといっただろうが」
 目を覚ますと、そこは保健室で忠宣の怒りの声が降りかかってきた。
「どうせ、倒れるんだから変に我慢しようとするな!そのたびにお前を運ぶことになるこっちの身にもなってくれ」
「いつもすまないな、忠宣」
 いったいこの会話を何回しただろうか。
 綾はいつもすまない気持ちになり、今度こそは倒れないようにしようとするのだが、それがかえって忠宣の怒りに触れてしまうのだ。
「でもお兄ちゃんはがんばったわ。前回の20分の記録を超えて、30分も耐えたんだから」
 隣のベッドで妹の奈緒(なお)が横たわりながら尊敬の目で綾を見つめている。
「私なんて10分で倒れてしまって、お兄ちゃんの健康がうらやましい」
「30分で倒れるやつのどこが健康なんだー!」
「あら、そう言えば」
 忠宣のもっともな意見に奈緒が頷く。
 この一つ年下の奈緒も綾と同じく、いや綾よりも虚弱な身で一之瀬兄弟はよく倒れることで有名だったりする。
 嬉しくないなあ…
「まあいい、次は倒れる前に保健室に行ってくれよな」
 ここで折れてしまうあたり忠宣が綾の世話役をやり続ける理由である。どんなに文句を言っても倒れそうなときには近くにいてくれるし。
「ありがとうな、忠宣」
 綾がお礼を言うと、忠宣は照れくさそうにそっぽを向く。
「もう、帰ろうぜ。お前もそれぐらい話せるなら歩けるだろ?」
 外はすっかり夕暮れだった。今日は学校集会だけの日だから、忠宣は綾が倒れてから、ずいぶんと意識が戻るのを待ってくれていたのだろう。
「ほら、鞄も持ってきておいたぞ。もちろん奈緒ちゃんのもな」
「ありがとう。忠宣さん」
「慣れてるなあ、忠宣は」
 感心している綾に忠宣は複雑な表情になる。こんなこと慣れても嫌だ。
「伊藤(いとう)さんだって、ずいぶん慣れたもんだぜ」
「伊藤さん?誰それ?」
 聞き覚えのない言葉に綾は聞き返すと忠宣の眉がつりあがる。
「お前、伊藤さんは俺と一緒にお前が倒れるのを介抱してる3年の先輩だろうが!」
 忠宣の言葉に綾は首をひねる。そんな先輩いただろうか?
「2年になってからいつもいつも、お前が倒れるたびに俺と一緒に保健室についてきてくれるんだぞ」
「私知ってるわ。3年A組の伊藤 菊乃(きくの)さんでしょう?集会の時にお兄ちゃんの横に並んでるっていう…」
「横に並んでる!?」
 綾の頭には倒れるとき、自分を心配してくれた女神のことが浮かんだ。
 まさか、あの人が伊藤さんなのか?
「今日だって倒れる直前声をかけてくれただろう?」
 忠宣の言葉に綾は女神が伊藤さんだということを確信した。
「倒れるたびに介抱してくれてたのか…」
 それなら、もっと早く伊藤さんに気づいていれば…
「どうした、綾!急に泣き出して」
「いや、自分の根性のない体が悔しくて」
 あと少し、ほんの少し意識を失うのが遅ければ伊藤さんのことをもっと早く知っていたのに。
「お兄ちゃん、伊藤さんにほれたのね」
「何でわかったんだ。奈緒!」
 簡単に見抜かれてしまい、綾は真っ赤になる。
「お兄ちゃんのことだもの」
 にこっと奈緒が笑う。
「本当か?綾!」
 綾が恥ずかしそうにうなずく。
「お前、そんな虚弱な体質で彼女ができると思ってるのか?身の程を知れ」
「そんな…」
 忠宣のひどい言われように綾は情けない声を出す。
「でも、確かにこんな俺を好きになってくれるわけないよな…」
「お兄ちゃん」
 暗く沈んでしまった綾を心配そうに奈緒は見る。
「自分を好きになってもらおうなんて思ってないよ。気持ちを伝えようとも思わない。ただ、遠くからそっと見つめるだけでいいんだ」
 綾のけなげな思いに奈緒は涙ぐむ。
「お前のその青白い顔で見られるのも気の毒だけどな」
 忠宣の言葉は一ノ瀬兄妹には聞こえなかったようだ。
「偉いわ、お兄ちゃん。自分の気持ちを閉じ込めて相手を思いやるなんて。私、お兄ちゃんの片思いを応援するわ」
「奈緒…ありがとう」
 目をキラキラさせながら、見詰め合う兄妹に忠宣はついていけず、大きなあくびをもらす。
「俺、帰っていいかな…?」



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