Angel Hnad(後編)





 そんな決意をひめた綾だったが、早速菊乃に迷惑をかける場面がやってきてしまった。
 それは夏休み前の球技大会のときで、綾はお約束どおり自分の試合が始まる前に貧血を起こして倒れてしまったのだ。
「すいません。保健室に付き添ってもらって」
 いつもは付き添いの役は忠宣なのだが、忠宣は綾が出るはずだった種目に代わりとして出ているのだ。
「いいのよ。私の出る種目は終わったし。それに保健室は冷房が効いて涼しいからね」
 いたずらっぽく微笑む菊乃に綾は感動した。
 なんて優しい人なんだ。まるで女神のようだ。
 綾にとって菊乃と話すのは初めてのことで感動、感動の嵐である。
「それにしても、こんなに多く看病してて会話するのってこれが初めてなのね」
 いつもは菊乃が声をかける前に綾は倒れていたし、菊乃の看病が終わってから綾が目を覚ますので話すどころか、綾は菊乃の存在すら知らなかったのだ。
「俺はもっとはやくに話していたかったです」
 考えを思わず口に出してしまってから綾は、菊乃にとって綾との会話は迷惑ではないのかと気づいた。ただでさえ、倒れた綾を看病してくれているのに。
「私もそう思うわ」
 しかし菊乃はにっこりと笑ってうなずいてくれた。これがたとえ社交辞令でも綾にとっては気を失ってしまいそうになるほど嬉しい。
「だって、もし一之瀬君が普通の男の子だったら私たち何の接点もないまま別れていたんだもの」
「それが看病でもですか?俺は迷惑じゃないですか?」
 綾が恐る恐る聞くと、やっぱり菊乃はあの女神のような微笑を浮かべてくれた。
「迷惑なんて思ったこと、少しあったけど。今では良い思い出だわ」
「良い思い出…?」
 まるで天国に昇るような想いだ。菊乃が綾のことを良い思い出と言ってくれているなんて。
「そう、良い思い出、全部良い思い出だわ」
 しかし菊乃の表情が悲しみに変わるのを見て、綾は我に返った。
「どうかしたんですか?」
「うん、私ね。一学期が終わったら転校するの」
「えー!」
 思いもよらない菊乃の告白に綾は貧血になっているのを忘れて起き上がった。
「転校ってどうして?」
「親の都合でね。本当は卒業までいたかったんだけど」
 無理をして微笑む菊乃に綾は胸が締め付けられた。
 もうすぐ、菊乃は綾の目の前からいなくなってしまうのだ。
 もう二度と会うこともないだろう。
 好きになって、まだほんの少ししかたっていないのに…
「伊藤さん…」
 綾は思わず泣き出しそうになって慌ててベッドにもぐりこんだ。
 淋しくて仕方ない菊乃ですら泣くのを我慢しているのに、綾が泣いては格好がつかないと思った。
「一之瀬君。眠くなったの?私グランドに戻るからゆっくり安静してね」
 綾は何も答えられず、菊乃はそのまま保健室を出て行ってしまった。
 突然の菊乃の告白に綾は何も考えることができず、ただ胸がきゅっと締め付けるように痛くて、それは何かをやらなければいけないという脅迫的な衝動に駆られていた。
 何かをやる。そんなこと、たった1つしかないけれど…

 終業式.
 今日で菊乃に会える最後の日だ。
 綾は、1つの決意をしていた。それは終業式に倒れずにいたら、菊乃に告白するということだった。
 絶対に倒れるわけにはいかない!
 綾は準備万端にして終業式を迎えていた。
 昨日の夜ははやく寝たし、朝ご飯も元気のでるものを食べてきた。
なによりも綾の気力が今までにない力を生み出していた。
 よし、調子いいぞ!
 すでに終業式が開始されてから、30分がたつが綾の体調は良好であった。忠宣が信じられない様子で綾を見ているが、それに余裕の笑みを浮かべることもできる。
「今日は大丈夫みたいね」
 隣りの菊乃がこっそりと話しかけてくる。
「はい、今日は伊藤さんとお別れの日だから。ベッドの上でさよならしたくないですからね」
「そう?うふふ」
 そう、そしてあなたに告白してみせます。
 綾は力強く菊乃に微笑む。
「…」
 しかし、校長の話に入ってから綾の様子ががらりと変わった。
 校長、話長すぎ…
 いつまでも終わりを見せようとしない校長の話に綾の体は限界を超えそうだ。
 これが終われば終業式も終わりなのに…
「おい、綾。大丈夫か?記録はもうとっくに超えてるんだぞ」
 忠宣の声が遠くから聞こえてくる。やばい、そろそろ倒れる前兆だ。
「頑張って、一之瀬君」
 今日のいつもと違う綾の気迫に何かを感じ取ったのか菊乃は綾に声援を送る.
「伊藤さん・・俺は…」
 俺はあなたに自分の想いを伝えたかったんですよ・・ただ、好きと…
 しかし、その願いも叶わず綾の意識は遠ざかっていった…

 気がつけば綾は保健室に寝かされていた。
 そうか、俺は倒れてしまったんだ。
「気付いた。一之瀬君」
「伊藤さん」
「もう帰らなければならないんだけど、これで会えるの最後だから…」
 綾は菊乃に自分の気持ちを伝えたかった。
 だけど綾は自分にかした試練を超えられなかったのだ。
 俺が伊藤さんに告白する権利なんてないんだ…
「一之瀬君。元気でね…」
「伊藤さんもお元気で…」
 綾にはこれが精一杯だった。
 溢れる涙を、涌き出る愛しさを押し込めるのに必死だった。
 菊乃は女神のような笑みを残して、綾に背を向ける。
 これが最後になってしまうなんて綾には耐えられない。
「伊藤さん!」
 思わず引き止めた綾に菊乃は不思議そうに振り返る。
「あ、あの…」
 何を言えば良いのかわからず綾はくちごもるが、
「・・最後に、最後に握手してもらえませんか?」
 手を差し出すと、菊乃は微笑んで手を握り返してくれた。
「ありがとう、伊藤さん…」
「さようなら、一之瀬君」
 手が温かい。泣きそうになりながら、綾は菊乃の最初で最後のぬくもりを感じた。

「お兄ちゃん、立派だったわ」
 菊乃がいなくなってから、やっぱり綾の隣りのベッドで寝ていた奈緒が感動に体を震わせていた。
「何が立派なんだ。告白もできないなんて、ううう…」
「まあ、綾らしかったよな」
 布団に丸まって泣いている綾を見て忠宣はため息をつく。
「元気だせ。次があるさ」
 忠宣が布団の上から綾を優しく叩くと
「ありがとう、忠宣」
 綾は鼻をすすりながら、布団から出てくる、
「うわ、鼻水きたねえ、近寄るなよ」
「そ、そんなあ…」
 一之瀬 綾、虚弱でちょっぴり情けない高校男子。はたして彼に春は訪れるのだろうか…



(終)

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