Sweet Drop7





 自転車で通学している私を見て、晋がひどく驚いた表情で固まってしまった。
 私は、晋の横を通り過ぎ、坂道にさしかかる。
 晋は置いて行かれそうになって、慌ててスピードを上げた。
「おはよう」
 どんな表情を晋に向ければいいのかわからず、ボソリと挨拶をすると、
「おはよう!」
 晋が嬉しそうに挨拶を返してくれた。
 晋の友好的な態度に安心して表情を和らげると、晋がニコニコと笑顔を全快にする。
「今日は何を賭ける?」
 どうやら、自転車競走レースをやる気満々らしい。晋はうずうずしながら、待ちきれないように聞いてくる。
「うん」
 私も今日のレースは負けられないと唇をキュッと結ぶ。木塚君からもらった勇気を出さずにおわらせたくはなかった。
「私が勝ったら、放課後晋と話がしたい」
 私が勝った時の報酬を言うと、晋の体からガクンと力が抜ける。
「…?」
 変なことを言ってしまったのかと不安になる。晋はうつむいたまま、緩やかにスピードを落として行く。
「晋?」
 晋に合わせてスピードを落とすと、晋が顔を上げ笑いかけてくる。
「そんなのレースにならないよ。だって、俺絶対負けるもん」
 情けない顔をしながら、晋は嬉しそうだった。
 晋はきっと、ずっと待っていたんだ。私が晋たちを避けていた理由を話してくれる時を。
 晋に嫌われたわけではないことを知って、張り詰めていた緊張が少しだけ緩んだ。
「今日はゆっくり行こっか」
 晋に微笑まれ、私も笑顔で頷いた。
 何も解決してないけれど、不思議と満たされた気分だった。
 幸せいっぱいで私は晋と並んでゆっくりと自転車をこいだ。
 やがてくるだろう失恋も今は忘れて、のんびりと晋と一緒にいる幸せを噛み締めていたかった。

 そして、放課後。
 静まりかえった教室に2人きり。
 薄暗くなり、落ちる陰影が濃くなっていく。
 私は晋の影を見つめながら、胸の高鳴りが押さえ切れない。
 今にも心臓が止まってしまいそうなほど苦しかった。
「茜」
 晋のいつもと違う真剣な声に、鼓動が跳ね上がる。晋の顔を見ることが出来ずに、うつむいてばかり。
 クラスのみんなが帰ってから、30分ほど時間が経過していたが、私は声1つ出すことが出来ずにいた。
 それを黙って待っていた晋が、ついにこらえ切れないように話しかけてくる。
「そんなに緊張するなよ」
 張り詰めていた雰囲気が晋にも伝わったのか、晋が上ずった声を出す。困ったような、だけど優しい声に私の心がいくらか軽くなる。
「晋…」
 気持ちを奮い立たせて視線を上げると、ほっとしたような晋の目と合う。
 だが、その瞬間胸がつまり、私はまた声を出すことが出来なくなっていた。
 晋の久しぶりの会話が戸惑いながらも嬉しかった。そして、これからの私の行動で、それを失うことになるかもしれない恐怖が湧きあがってきたのだ。
 また、黙り込んでしまった私に晋が表情を柔らかくする。
「なに黙ってんの?楽になるから俺に話してみ?」
 軽い口調だが、それは私の気持ちを楽にさせようとする行動だってわかる。晋の優しさに触れ、私の恐怖はますます膨れ上がっていく。
 だけど、このまま引き下がるわけにもいかなかった。
 ここで、なにも行動に移さなければ、また元に戻ってしまう。いや、事態はもっと悪い方向へと進んでしまうだろう。
 告白しても、しなくても晋を失うならば、自分の気持ちを伝えたほうがいい。
 決死の覚悟で口を開きかけるが、
「俺はさ、茜のことを本気で心配してるわけよ」
 晋が先に話はじめてしまい、タイミングを逃す。
「俺って頼りがいがない奴かもしれないけど、少しでも茜の苦しみを取り除いてやりたいと思っているのですよ」
 どこか照れくさそうに晋は話す。だけど、私のことを本気で心配しているのが伝わってくる。
「晋、私ね…」
 私は感動して、自分の気持ちを告白しようとした。
 だが、
「松原さんも心配してるしさ」
 最後に付け加えられた言葉に、全ての感情がガラガラと崩れ落ちた。
「なに、それ…」
 現実を突き付けられた。
 晋が沙紀を好きだと言う現実を。
 晋は私を心配していない。私を心配してふさぎ込んでいる沙紀を心配しているんだ。
 ああ、そうか。
 どこか冷静な自分が、冷たい状況を把握していた。
 結局、私はなんとも思われていないんだ。沙紀のおまけなんだ。
「茜」
 目を見張ったまま動かない私を、心配そうに晋が声をかけてくる。
「やめてよ」
「茜?」
「そんな目で見ないで!!」
 晋が私に向けている視線の向こうに沙紀がいる気がして、嫌悪感でいっぱいになる。
 急に取り乱した私に晋が戸惑いを隠せないでいた。
 どうして、わかってくれないの!?
 沙紀のことを口に出して欲しくない。私のことを見て欲しいの。
 私の気持ちに気づいて欲しい。鈍感に私を傷つけないで。
「バカみたい。私の機嫌をとってどうするの?」
 ぞっとするような冷めた視線に晋が口を開けたまま固まる。
「そんなに沙紀の機嫌をとりたいなら、優しく沙紀を慰めて上げればいいじゃない」
 突き放すような言い方に、晋の顔が羞恥に赤く染まる。私に沙紀への気持ちを気づかれていたと思ってもいなかったのだろう。
 晋は本当に自分のことには鈍感だ。それが、私をどれほど傷つけるかわかっていない。
「松原さんは関係ないだろう。俺は茜のことが心配で」
「やめてよ!!」
 ヒステリックに叫ぶ私に、晋がなす術もないように立ち尽くす。
「下手に言い繕わないで!沙紀のことしか考えてないくせに」
 もう、自分が何を晋に伝えたかったのかわからない。こんなこと言いたくない。晋を確実に傷つける言葉。
 本当は違う。こんなこと言いたくないよ。思ってもない。だけど、止まらないの。
 負の感情に取り込まれて、口が止まらない。
「だから、沙紀は晋のことが好きじゃないんだ。木塚君が好きなんだ」
 傷を抉るような言葉に、晋の体が強張る。
「晋だって知っているんでしょう?沙紀の気持ち」
「茜!」
 制止する晋の言葉に構わず、話し続ける。晋の手が細かく震えている。
 怒っている。晋が懸命に怒りをこらえている。
 でも、止まらない。止めて欲しい。誰か、止めて。
「沙紀は絶対晋を好きにならない。晋はふられるのよ!!」
 教室に響き渡る絶叫に、晋の右手が上がる。
 それが、私めがけて振り下げられ、ギュッと目を閉じる。
「…」
 しかし、それが降りかかることはなかった。
 そっと目を開けると、晋が手を上げたまま拳を握っていた。
「晋…」
 おびえるような私の瞳に、晋ははっとして手を下ろす。
「どうして…」
 どうして、殴ってくれないのだろう。殴ってくれれば、この気持ちも一掃出来たかもしれないのに。
「ごめん…」
 晋は気まずそうに瞳を逸らす。
「謝らないでよ…」
 突然、ブワリと涙が浮かび上がってくる。
「茜!」
 泣きはじめた私に、晋がオロオロと取り乱す。
 私は、そんな晋を見て余計に泣いてしまう。
 優しい晋。どんなに私がひどいことを言っても心配してくれる。
 晋が好き、大好き。
 でも、でも…
「晋なんか大ッ嫌い!!」
 叫び、私は教室を飛び出た。
 気持ちの糸がこんがらがってしまって、上手く解けない。
 色んな感情が入り乱れて、涙がとめどなく溢れてくる。
 私は、ぼやけた視界の中を全速力で走った。



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