A Lullaby7
1229年―終演へ
玄関の扉を開けると、目の前に怒った顔のシズが立っていた。
半眼で睨みつけてくるシズの横を通り抜けようとすると、シズが慌てて目の前に立ちはだかってくる。
それを二、三回繰り返した後、観念したシドは動きを止めてシズを睨む。
「なんだよ」
ぶっきらぼうに言うシドの態度に、シズの表情が一段と険しくなった。
「どこに行くのっ!?」
怒鳴ったシズに、シドはポンポンとシズの頭を叩き、笑った。
「じゃあな」
一言残し、シドはシズの横を通り抜ける。
しばらくシズは呆然とシドの後ろ姿を見ていたが、我に返って叫んだ。
「待ってよ、シド!」
シズが叫んでもシドは振り返らない。躊躇いもなく遠ざかっていくシドの姿を見て、シズは泣き出してしまった。
「シド、いかないで。ボクを置いていかないで」
必死に哀願するシズに、シドは振り向きたくなる。しかし、シドは振り向かなかった。自分がここにいてはいけないとわかってしまったから。
「…なんで…なんで行っちゃうの?ボクが病気持ちだから…?」
思いもよらないシズの問いかけにシドは足を止めた。
「ボクの病気は絶対に治らないんだって…それにボクはいつ死んでもおかしくないんだ。だからこの屋敷から出られないし、たくさんの人とお話もできない。だから…だから、ボク嬉しかったんだ。シドがここに来てくれて、外のお話とかいっぱい聞けるって思って…」
話しているうちにシズの息が荒くなり、言葉も途切れ途切れになっていた。
シズは自分の体の異変を感じ取った。呼吸するのが苦しくて立っているのも辛い。視界がどんどん暗くなる。周りの音が遠くなり、完全に自分と切断された。
のばされた糸が切れるように、シズの体も動きを止め、その場に倒れた。
意識だけが残っており、シズは自分の体が動きを止めたことがはっきりとわかった。
そうか。ボク、死んじゃうんだ…
はっきりとした意識の中でシズはそう思いながら、それに対して恐怖もなにも感じていなかった。ただ、その事実を受け止めていた。
生きたいと思う未練もなく、シズはただ意識が途切れるのを待った。
「…シズ、シズ、シズ!!」
何も考えずにいると、次第にシドの声が聞こえてきた。
自分を呼んでいる。ひたすらに自分の名前を連呼していた。
「…シ、ド」
ゆっくり口を開くと言葉が出た。びっくりした。まさか声が出るなんて思わなかった。
「シズ!」
するとシドの歓喜の声が返ってきた。
その声を聞くと乾いていた瞳から涙が出てきた。
でも意識は空っぽだった。なにも考えず、なにも感じない。
涙は出てくる。なにかの感情と一緒に涙は流れていた。
「待ってろよ、シズ。アサミのところへ連れてってやるからな」
アサミ…?
シズはシドが言ったアサミという少女の名に心が揺れたのを感じた。
「…会いたい、アサミ」
シドの腕の中で揺れながら、シズはポツリと呟いた。
アサミ。いつもレンズの向こうで笑っていた少女。科学の天才と言われ、シズとは正反対の位置にいた。
何故彼女に会いたいんだろう?
会えるはずもないのに。だってアサミは未来にいるんだもの。会えるわけがない。
でも何故か気になる。アサミのことが気になる…
「アサミ!どこにいるんだ?シズが、シズが!!」
必死になって叫ぶシドの声が聞こえる。
アサミを呼んでいる。アサミがこの屋敷にいるの?
「シド?シズがどうしたの?」
アズミがこっちに走ってくる音が聞こえる。
「シズっ!」
誰かがボクの頬に触れる。きっとアズミだ。
「シド、はやく機械部屋へ!」
アズミの声が震えている。そんなにボクの体が悪いの?ボク、助からないの?
ボクの体、止まっちゃうの?
そんなことになったらアズミが悲しんじゃう。嫌だ、アズミを悲しませたくない。
扉が乱暴に開かれた。それと共に体をベッドに寝かせられる。
「麻酔をかけるわ」
麻酔?やめて、意識が途切れちゃう。
嫌だよ、アズミ。これでさよならしたくない。
やめてよ、や…め…て…
「シズを助けられないのか?」
アズミはシドの問いに首を横に振った。
「無理、私にはできない」
弱々しい声で呟く。
アズミは目を真っ赤にしながらシズを見つめていた。
シズを助けるすべはない。アズミにはシズの体のどこが悪いのかさえもわからないのだ。
「でも、このままにしておくわけにはいかないだろう?」
ただシズを見つめ続けるアズミにシドはイラついた声を出す。
「無理よ、私には無理。私は天才じゃないもの」
「アサミ…」
「その名前で呼ぶのはやめて!!」
アズミは叫び、苦々しい顔でうつむいた。
「私はアズミよ、アサミなんかじゃない」
シドはアズミの感情の起伏に呆然としていると、アズミは恥ずかしそうにシドを見た。
「ごめん。急に叫んで」
「いや、別に」
沈黙が下りた中、アズミはポツリと呟いた。
「私、科学が嫌いだったの」
アズミの言葉にシドは反応できなかった。あまりにも唐突な言葉にシドは言葉を失う。
「皆は私を天才と呼んだけれど、本当は天才なんかじゃなかった」
目を閉じてアズミは言う。胸で握りしめた手がわずかに震えている。
「私はたくさん努力したわ。皆に天才って言われるように。本当の天才に勝つためには、何十倍も何百倍も努力するしかなかった…私は頑張った。皆に自分を認めてもらうように…でも!」
目を開き、問うような眼差しをシドに向ける。
「どこまで?いつまで頑張ればいいの?天才じゃない私がどこまでやれるの!?」
目に涙を浮かべ、シドにすがりつく。シドははじめて見るアズミの激情に戸惑った。呆然とアズミを見つめる。
「…私は怖かった…天才じゃないとばれる日が来ることが怖かったの…ばれたら、どうすればいいの?天才じゃない私を皆は認めてくれないわ…」
シドの胸の服を掴み、アズミは喘ぐように呟く。
苦しい辛いと助けを求めているようにシドは感じられた。
シドは胸が苦しくなってなにも言えなかった。昔、安易にアズミを妬んでいたことが恥ずかしい。テレビの少女も自分のように科学に苦しめられていたのだ。
「だから逃げたのよ!科学から逃げるためにタイムマシーンで過去に来たの。テレビで見たシズは純真な目で科学を見つめ、必死に取り組んでいたから来たのに…」
アズミの言葉にシドの動きが止まった。アズミの言葉は変だ。そう言えばアズミはシドが家出した後、なんのテレビを見ていたのだろう。
シドが家出したのは13歳。アズミがタイムマシーンを完成した日がいつかはわからないが、どんなに速くても14、5歳の時だろう。
ならばシドがいなくなってからのテレビにはなにが映し出されていたのか…
…まさか…
シドはアズミの顔をのぞき見る。自分の考えが否定されることを望んで…しかし、アズミはそれを打ち消すように薄く笑う。
「私がタイムマシーンを完成させたのは23歳。シズがいなくなってもテレビの映像は流れ続けたわ。不思議ね…テレビには成長したあなたの姿が映っていたわ。しかも科学に従順で真面目なシズがね…」
顔に笑みを張り付けたままアズミは話す。垣間見えるアズミの顔に不気味な光陰が作られる。シドは恐れを露わにしたままアズミから目を離せずにいた。
「私はシズに教えてもらいたかった…どうしたらシズみたいに科学に情熱的に取り組めるのか知りたかった。私にとって最早科学は恐怖でしかなかった。シズにもう一度私が純粋に科学に取り組めるようにして欲しかった…なのに、なのにっ!」
シドはギュッと目をつぶった。アズミの次の言葉を聞きたくない。
「なのにシズはいなかった。シズは13歳の時にいなくなっていたのよ。あのテレビで流れていたシズは偽物だったのよ。全ては祖父が仕組んだ罠だったのよ!」
アズミはシドを突き飛ばし、狂ったように頭を振る。
シドがアズミに手を伸ばすと、アズミはシドの腕を引き寄せた。シドの体が前に傾く。
シドの視線の先にアズミの顔がある。涙を流す目を見開き、あざけ笑うアズミの顔が。
「祖父は死んだわ、私がここに着く直前に。まるで私がここに来ることを知って狙い澄ましたようにね…そしてシズがいた。機械のシズだけが…13歳のままのシズだけがそこにいた」
シドの腕を掴む手に力が込められる。シドは痛さに顔を歪めた。痛いのは自分の腕じゃない、アズミの心だ。
「何故?どうして科学は私を苦しめるの?どうして科学から逃げることができないの?嫌い。大嫌いよ!科学なんて、科学なんて…」
アズミの体が崩れ落ちる。子供のようにアズミは泣いた。声を出し、なりふり構わず泣いた。
シドはアズミの体を抱いた。あやすように背中をさする。
アズミはシドの首に両腕を回し、胸に顔を埋める。
「私は天才じゃない…天才じゃないのよ。なのにどうして?どうして…私はシズを助けられない…シズ…シズ…」
うわ言のように呟き続けるアズミを黙ってシドは抱きしめる。
自分もアズミももうシズをどうにもすることはできない。
シドは知らなかった。アズミが「天才」という自らにつけられた称号にこんなにも苦しめられていたことを。
天才と言われ、科学の全てを把握したように誇らしげにほほ笑んでいた少女などどこにもいなかったのだ。笑顔の裏に隠された苦悩をシドは気付くこともなく、シドはその少女を天才と呼び、今までそうだと信じていた。
しかし、それは嘘だった。幻だった。少女は本当は血のにじむような思いで今まで生きてきたのだ。最後の希望を目指し、それすらも裏切られた彼女をシドは抱きしめる他になにもできなかった。
自分は科学から逃げられた。しかし少女は逃げられなかった。逃げたその先にも科学が待ち受けていたのだ。高い壁をそびえさせて…
天才にしか超えることを許されない高い壁がここにある…