A Lullaby5





 翌日、シズは週一回ある持病の治療を受けるため、地下室の機械部屋に来ていた。
「ねえ、アズミ?」
 アズミに麻酔の注射を打たれながら、シズは暗い表情でアズミに話しかけた。
「なあに?」
 アズミは注射を打ち終わり、注射器を片しながらシズに視線を投げる。
「シドの様子がおかしいんだ」
 シズはうつむき、不安そうな声を出す。
「えっ?」
 アズミは話がシドのことと聞いて胸騒ぎを覚えた。
「昨日の夜、シドとお話をしてたんだ。おじいちゃんのことを話したらね、シド泣いてやめてくれって叫んだんだ。ボク、なにか悪いこと言ったかな?」
 その時のことを思い出したのか、シズの目は涙ぐんでいた。
 アズミは強張った顔でシズの話を聞いていたが、シズが泣き出すと困ったようにほほ笑み、シズの頭を優しく撫でた。
「大丈夫。シズはなにも悪いことなんてしてないわ」
 慰めるようにシズの頭を撫でる。
 アズミにそう言われ安心したシズはうとうとし始めた。どうやら、麻酔が効いてきたらしい。
「さあ、治療の時間よ。ゆっくりと眠りなさい」
 アズミがそう言った時、すでにシズは夢の中にいた。
 アズミはシズが完全に眠ったのを確認して治療に入った。
 色々なコードをシズの体に繋げながらアズミの顔はどんどん険しくなっていく。やがて全てのコードをシズに繋げ終わると、アズミは静かに機械部屋を出た。その顔は怒りを静かにたたえていた。

 大きな音を立てて扉が乱暴に開いた。
 アズミは探し人を部屋の中に見つけ、後ろ手で今度は静かに扉を閉めた。
「探したわよ、シド」
 アズミに凄い目で睨みつけられ、シドは口端を歪めた。
「おいおい、そんな目で睨まないでくれよ」
 シドがおどけたように笑っても、アズミの態度は変わらなかった。全身から殺気を向けてくる。
 アズミの本気で自分を殺しかけない雰囲気にシドは恐れもせず、それを真正面から受け止めていた。口端にはわずかな笑みが浮かんでいる。
「出て行きなさい」
 低い威厳のこもった声が部屋の空気を震わす。大きくはないが、その声には圧倒的な強さが感じられた。
「今すぐここを出て行くのよ!」
 ピシャリと言った声にシドの顔から笑みが消えた。しかし、その顔はアズミに恐れをなしている顔ではなかった。強い憎しみを表している。
「これ以上、シズをあなたに近寄らせることはできないわ」
 ギラギラと底光るシドの目に、アズミは負けじとシドを睨む。
 だがアズミは負けていた。シドの憎しみの強さに。
 それでも譲れないものがあった。シドの憎しみの年数より、アズミのこの思いをかけてきた年数のほうが比べ物にならないほど長いのだ。気が遠くなるような年数をアズミは旅してきたのだ、ただ一人に会うために。
「俺はシズを殺す」
 呟いたシドの声はまるで機械のようだった。感情というのが全く見当たらない。
「シズがなんであろうと俺はシズを必ず殺す!」
 断言したシドの目には怒り、憎しみなどの負の感情が煮詰まっていた。
 アズミは思わずシドから目をそむけた。見るに耐えられなかった。昔の彼を知っているからこそ、今の彼を見られなかった。いや、見たくなかった。昔の純粋な瞳をした彼とは全くの別人だったから。
「…」
 アズミはシドから顔を背けたまま泣いていた。彼が哀れだった。シズを憎む彼が可哀想だった。
「アズミ…」
 急に泣き出したアズミに驚き、シドの目から憎しみの色が消えた。
 アズミはシドに視線を再び動かした。その目はシドに対して謝っていた。
 これからシドに言うことが、どんなに彼を苦しめるかわかっている。だが言わなければならない、自分とシズのために。
「もう、あなたの居場所はここにはないのよ」
 アズミが苦しげに言う。その声は微かに震えてゆっくりとシドの耳に入った。
「あなたは死んだのよ、この家で。あなたの部屋で10年前に!」
 叫んだアズミにシドは目を見開いた。シドはフラリと一歩後退した。
「シド…いいえ、あなたの本当に名は…シズだわ」
「…何故…それを…?」
 シドは驚愕に見開いた目でアズミを凝視する。
「あなたは10年前、祖父とケンカをした。それは祖父が自分に押しつける科学から逃れたいという一心であなたが起こしたものだった」
 淡々と話すアズミにシドはだんだん吸い込まれていった。まるで催眠術で過去の出来事を探られる人のように。
「そうだ。そして俺は祖父の束縛から逃れたくて家を飛び出したんだ」
 虚ろな目で熱に浮かされたように話すシドに、アズミはゆっくりと頭を横に振った。
「いいえ、違うわ。あなたはその時祖父の手によって死んだのよ!!」
 呪いの言葉を吐き出すようにアズミは苦しげに呻いた。その顔にはやりきれなさや苦痛が入り混じっている。
 それでもアズミは視線をそらさなかった。どんなに苦しくても、どんなにつらくても見ていなくてはならない。シドの傷ついた顔を。
 シドは放心状態だった。まだ自分がなにを言われたのかわかっていない様子だ。
 途端にシドの顔が歪んだ。いや、歪んだのではない。笑おうと失敗したのだ。
「…事実はあなたの言った通り。あなたは祖父から逃げて今もこうして生きている…」
 無感情の声と違ってアズミの顔は悲痛に歪んでいた。
 本当はこんなこと言いたくない。シドを傷つけるだけの話しなんてしたくなかった。
「…だけど祖父にとっては…祖父の信じている真実では、あなたはあの時死んだものとなっているのよ!」
 アズミがかすれた声で叫ぶ。シドはアズミの言葉をただ黙って聞いていた。とても口を開ける状態ではなかった。頭が凍りついていた。考えることができない、ただアズミの言葉を頭の中で処理することしかできなかった。
「祖父の可愛がっていたシズはあなたじゃない!本物のシズは今私たちがシズと呼んでいるシズだけ!この屋敷を出た時、あなたは自分がシズであることを捨てたのよ!!」
 部屋中にアズミの声が響き渡る。アズミは肩で息をしていた。しっかりとシドの目を見たままアズミは、
「出て行って。ここから出て行って…」
 と静かに、だが強い声でシドに言った。
 シドは机にもたれかかり、眼光の消えた瞳でアズミを見ていた。なにかを言おうと口を開くが、言葉を出せないまま口を閉じた。
 もう、なにもかもわからなくなっていた。自分がここに来た理由も。自分の存在さえも。まるで霧にかかったようにボンヤリとしている。
 グラリとシドの体が前に傾いた。シドは右足を一歩前に出した。そして左足もゆっくりと前に出す。
 シドは歩き始めた。行くあてはなかったが、動かずにいられなかった。
 アズミは黙って扉の前からどいた。シドは真っすぐ扉に向かい、扉の横にいるアズミに目もくれないで部屋を出て行った。
 シドが部屋から出て行くのを見送った後でアズミは深いため息をついた。体を壁に預け、目をつむる。
「何故今頃帰って来たのよ…」
 呟くアズミに答えてくれる人はいない。声は無情に辺りに散らばる。
 シドの様子を思い出し、アズミの胸が痛みを覚えた。まるで心をしぼられる思いだった。彼の幸せを願っていただけに、この痛みは大きかった。
 シドはどこへ行ったのだろう?
 自分の部屋か。祖父の墓か。それとも、この屋敷を出て行ったのだろうか。そう考え、アズミはシズの眠っている地下の機械部屋のことを思い出した。
「…まさか…」
 シドがあの部屋に入ったら…
 そう考え、血の気が引いた。もしシズを壊されたりしたら…
 アズミは慌てて部屋から飛び出す。
 シズ!どうか無事で…
 神に祈りながらアズミはシズのいるもとへ急いだ。



『next』     『novel-top』