季節を抱きしめて8
椿の声は闇のヴェールを超えて、梛の耳に届いた。
「椿さんの声が聞こえた」
椿が自分の助けを求めてきたのだ。
「えっ?」
楓や林には椿の声が聞こえなかった。
「ぼく、行かなくちゃ」
走り出す梛を林は止めた。
「バカっ、おまえが行ってどうなる」
「そんなの関係ないんだ。椿さんが呼ぶから、ぼくは行くんだ」
林の説得も今回は効かなかった。
「自分が消滅してもいいって言うのか?」
なおも説得を試みる林に梛は、
「離して」
一言しか返さなかった。
「許さねえ!おまえが消滅するなんて許さねえ。おまえは天に昇って幸せになるんだ!幸せになるべき奴なんだ!!」
「林、ぼくは椿さんを助けに行くんだ」
「梛!」
林の怒鳴り声に梛は眉ひとつ動かさなかった。
「幸せってなに?ぼくは椿さんが幸せでなければ幸せになんかなれないよ。ここで椿さんを助けなければ幸せになんかなれない」
梛の言葉に林はなにも言えなかった。
「林、行かせてあげましょう」
そっと楓が林の腕を引く。
「今行かなければ梛ちゃんはずっとこのことを足枷として生きていかなければならなくなるわ。それこそ梛ちゃんの幸せを奪うことになってしまうわ」
「楓…」
林は、林の腕をつかむ楓の手にそっと自分の手を重ねた。
「行ってこい、梛。ただし必ず戻ってこいよ」
梛は頷くと闇の中へ走り去った。
「なんだよ、あいつ。別れの言葉ぐらい言っていけよ」
軽い声の調子に比べて表情は硬く、目は不安そうに揺れていた。
「大丈夫よ、梛ちゃんだもの」
スルリと林の腕を組み、楓は慰めるように言った。
「おまえの大丈夫は当てにならないんだよ」
笑おうとして林は失敗した。声がひきつった感じになる。
「大丈夫よ、大丈夫」
顔を伏せた林に楓は繰り返し繰り返し言った。
一方、林のそんな気持ちも知らず、梛は闇へ向かっていた。
邪悪な闇の中に身を投じることなど怖くなかった。
今はただ胸の奥で燃え盛る炎が熱かった。
その熱さに身を任せ、梛は闇に突っ込んだ。
「椿さん!」
闇の重圧に耐えながら、梛は叫んだ。
全てが闇で椿の姿どころか自分の手すら見えなかった。
「椿さん!!」
梛は叫び続けながら一歩足を踏み出した。
その瞬間、ズシリと梛の体が沈んだ。
膝を突こうとして、梛はこの闇に底がないことを知った。そのまま落下していきそうな感覚に陥る。
このまま闇に溶けてしまいそうで梛は悲鳴を上げた。その悲鳴さえ闇に呑み込まれて消えていく。
助けを求めて上へ伸ばしたはずの手さえ、闇の中で見えない。
唐突に自分の体が存在しているのかという不安に襲われた。
声に出したはずの悲鳴が、伸ばしたはずの手が本当にあるのかわからなくなってしまった。
じわじわと闇に侵されていきながら、梛は恐怖に身を震わせることしか出来なかった。
全てを忘れ、ただ本能が恐怖しかとらえられなくなってしまっていた。
闇に捕まってしまった。
軽い衝撃を受け、闇が揺らめいた。
梛が闇に侵入してきたのだと椿にはわかった。
まっすぐ自分のもとへ向かってくる梛を感じながら、椿は必死に手足を動かし梛に近づこうとしていた。
その梛の気配が止まった時も椿は不安もなにも抱かず、ただ懸命に手足を動かし続けた。
梛のもとへ行けば、この闇から抜けられると椿は信じていた。
「梛くん!」
だから梛の姿を見た時のショックは大きかった。
梛の体は闇に捕まり消えかかっていた。かろうじて残っている顔もうつろで、その目にはなにも映っていないことがわかる。
「梛くん」
呼ぶと梛の目が微かに輝いたような気がした。
椿はそれに希望を感じ、梛の名を連呼しながら必死に梛のもとへ向かった。
「…くん、梛くん」
耳元で椿の声が聞こえて梛の目が覚めた。
「椿さん…」
近距離から見つめられ、梛は思わず目をそらした。
そして梛は自分の体の異変に気付いた。
梛の体は首の下から闇に包まれていた。
動かそうとしても梛の体は動かなかった。なにかに縛られているように動けば動くほど、その戒めは強くなっていく。
「梛くん」
焦る梛に椿はそっと梛の頬を撫でる。
「梛くんの頬、梛くんの首、梛くんの肩、梛くんの腕、そして…」
続けて梛の首、肩、腕に手を這わせる。
椿の手に触れられ、梛の体は蘇っていく。
「梛くんの手」
梛の手を椿はギュッと握りしめる。
「大丈夫。梛くんは梛くんだよ」
椿がほほ笑んだ瞬間、梛の戒めが完全に解けた。
自由になった腕で梛は椿を抱きしめた。
腕の力が強くなっても椿は身じろぎもせず、黙って手を重ねた。
梛は涙を流した。
初めて椿に触れた柔らかい肩と髪の甘い匂いは、梛の涙を誘った。重ねられた手のひらが熱かった。
触れるはずの出来なかった手に、肩に、彼女に触れることが出来た奇跡。彼女が見つめてくれた、呼んでくれた、そして好きになってくれた。
もう他になにもいらない。この瞬間を止めることが出来たら…
「椿さん」
梛は名残惜しげにやっとの思いで椿の体から離れる。
「梛くん…」
梛の体から光のオーラが溢れるのを椿は見た。闇にも負けない輝きを梛は自分の体から発していた。純白の汚れなきオーラを。
梛は重ねた手のひらを離し、ゆっくりとその手を椿の頬に持っていく。
微かに椿の頬に指先が触れた瞬間、
「ありがとう」
梛は思いっきり椿の体を突き放した。
「梛くん!」
この瞬間を止めることが出来たら、もう他になにもいらない…でも時は流れるから。君の周りには流れ続けるから、たとえぼくの時は止まったままでも、それは出来ない。君にはぼくのような思いはさせたくない。
だから君を守るんだ!!
梛の体から溢れ出ていたオーラが一気に天に突きだした。
闇を切り裂く光に、闇も負けじと光を呑み込んでゆく。
歯を食い縛り、闇に耐える梛の姿がグラリと揺らめいた。
薄れていく意識を必死につなぎとめる。オーラを出せば出すほど意識が失われていく。
「椿さん…」
椿の名を呼ぶと、力が湧いてくるような気がした。
グラグラと霞みぼやけていく自分の体。このままオーラを出していけば自分は消えてしまうだろう。
このオーラは自分の命を削っているものであって、オーラが尽きる時、自分の命も終わる。
それでも梛はオーラを出し続けた。自分よりも大切な人を守るために。
闇が弱まる一瞬を梛は見逃さなかった。
「うわあぁぁ〜!」
体が千切れる感覚に悲鳴を上げながら、梛はありったけの力を放出した。
凄まじい閃光が闇を裂いた。