季節を抱きしめて7





「梢…」
 梢ではない梢の声に椿は恐怖の声を上げた。
 ―なにを言うかと思えば、フフッ、笑える話をしてくれるじゃない。
 ニヤリと細めた目は邪気に満ちていた。
 梛は思わず梢から目をそらした。あまりの禍々しさに正視出来なかった。
 ―好きだからこそ殺すのよ。手元に置きたくなるのよ。あなただってそうでしょう?
「違うっ!好きだからこそ守りたいんだ。好きだったら殺せない。その人の未来を幸せを奪うことなんて出来ない!」
「梢…梛くん…」
 この2人は両極端過ぎる。同じ幽霊でありながら、どうしてこうも違ってしまうのか。
 どちらが正しいのかだなんて決められない。
 どちらが私をより好きなのかなんてわからない。
 ただ今の梢から私の知っている梢を連想出来ない。
 梢はこんな声じゃなかった。梢はこんな風に笑ったりしなかった。
 わからない…なにもかもが…
「見てるだけで良かったんだ。本当は椿さんの前に姿を見せるつもりなんかなかったんだ。椿さんの笑顔を見てるだけで幸せだったんだ。そういうものだろう?どうしてこんなことを望むんだ。ぼくたちはもう死んでいるのにっ!!」
 死者だから…ぼくたちは死者だから決してももう生者と同じ時を歩むことは出来ない。全てが死者を通り越してゆくのだから、なにも出来るわけないんだ。見ることしか、祈ることしか出来ない。その人の幸せを…
「何故わからないんだ、梢さんっ!」
 梛の言葉に椿は涙を流していた。
 彼の辛さが苦しみが彼女の胸に伝わってきたのだ。
 知らなかった。梛くんがこんな思いをしていたなんて…
 椿は今にでも梛に謝りたかった。
 この思いに気付かなかったことを謝りたかった。
 ―フフッ、ハハハハッ。笑える、笑えるわっ!くだらなさ過ぎて息が止まりそうになったわ。
 梢は嘲笑を浮かべ、嘲るように梛を見下す。
 ―見てるだけで幸せ?なら、そこで見てるがいい。椿が死ぬ様をなっ!
 梢の言葉が終ると闇が2人をすっぽりと中に包んだ。
「椿さんっ!」
 ―嬉しいだろう?椿が死ねば椿も幽霊だ。ずっと見つめることが出来るぞ。
 パチンッと梛の中のなにかが切れる音が聞こえた。
「おまえはっ、おまえは梢さんなんかじゃないっ!!」
 咆哮を上げ、梛は闇に突き進む。
「バカっ!やめろっ!」
 林は慌てて梛の腕をつかむ。
「離せっ!」
 梛はもがくが林の手は梛の腕をガッチリつかんで離れなかった。
「バカ野郎っ!おまえが行ったって闇に飲まれるだけだ!」
 林に言われ、梛は悔しそうに呻く。
「ぼくにはなにも出来ない…」
 林が腕を離すと、梛はそのまま地面に崩れ落ちた。
「椿さん…」

「…誰かが私を呼んでいる」
 誰だろう。
 知っている声のような気がする。
 すごくすごく安心できる声。
 思い出さなきゃ、思い出さなきゃ…
 そっと目を開けると自分の体が闇に包まれていた。
「闇…?」
 どうして闇に包まれているの?
 どうして?どうして?
 思い出そうとしても頭の中に霧がかかったようになにも思い出せなかった。
 思い出す…?思い出さなくてもいいわ。
 闇の中は心地よく、自分を優しく包んでくれた。眠る一瞬前のまどろみのように。
 このまま闇に溶けてゆくのかしら…
 漠然と思った。でも、それを恐れる心はなかった。
 ―椿、目を閉じてすぐに楽になれるわ。
「椿?…私の名前。あなたは…梢!」
 その瞬間、椿の頭の中で全てが弾けた。
 全てを思い出した。この闇の正体も、あの声の正体も。
「梛くん…」
 梛くんが私を呼んでいる。
 梛くん。
「梛くん!」
 叫んだ瞬間、目の前の闇が開けた。
「椿さん…」
 梛が椿を驚いたように見ていた。
 椿は梛のもとへ駆け寄ろうとしたが、下半身が闇に包まれて動けなかった。
「…嘘だろ。あの女、自力で闇から抜け出しやがった」
 3人はしばし呆然と椿を見ていた。
 すると闇の中から椿に覆いかぶさるように梢の上半身が出てきた。
 ―どうしたの?椿。
 梢の手が椿の頬に触れる。ビクリッと椿の体が震えた。
 ―怖いの?フフッ、もう逃げられないわよ。
 梢の手が頬から首へと移る。
 椿はガタガタと体を震わせながら、梢の顔を見ると、梢はニタリとほほ笑んだ。
「っ!」
 叫びたくても声がでなかった。喉になにかがつまったように息をすることすら難しい。
「梛ちゃん!椿ちゃんを呼ぶのよ」
 はじめに正気に戻ったのは楓だった。
 楓はしゃがんでいる梛を立ち上がらせ、叱咤する。
「椿ちゃんを助けられるのは梛ちゃんしかいないのよ!」
「ぼく…しか?」
 ぼくしかいない?
 梛は目の前に広がる闇と、その中にいる椿と梢を見た。
 椿の顔は蒼白だった。化け物のような梢の顔から目をそらせないでいる。
「椿さん」
 呼ぶと、呪われたように梢を見ていた椿の視線がこちらに向いた。
 あっさりと解けた呪縛に梛は驚いた。
 自分の声には強力な魔力が備わっているのだろうか。
「梛くん」
 椿は梛に手を伸ばし、助けを求めようとした。
 しかし、
 ―椿!忘れないで。私はあなたのせいで死んだのよ。
 梢の言葉によって、それは出来なかった。
 椿の体から全ての力が失われた。
 それを見て、ニヤリと梢はほほ笑んだ。
 自分のせいで梢は死んだ。
 それを梢が許してくれるはずがない。
 やっぱり、自分は梢と共に死ぬしかないのだ…
 そう、それしかないんだ…
 椿の頭の中には後悔や罪悪感、そしてそうした自分への責めしかなかった。
 これも闇の効果かもしれない。彼女は一番大切だったという思いをすっかり忘れていた。
「いい加減にしろよっ、椿!また同じことを繰り返すのか?おれはなんの理由であれ一緒に死んでやろうなんて言う奴は許せなかった。だけど、まだおまえの本心の理由の方が良かったぜ!」
 林の叫びに椿の心の毒がゆっくりと溶けていった。
 嘘の理由…本心の理由…
 梢を殺したから死ぬ。
 梢を大好きだから死ぬ。
 大好きな梢。
 今の梢…大好きな梢?
 …本当の梢?
 一気に梢への不信感が胸の中を駆けずり回った。
 今まで抑えていた気持ちが溢れ出してしまった。
 この感情は梢への裏切りだと思っていた。だから隠してきた。厳重な箱に閉まって。
 でも違う。違いすぎる。私の知っている梢と今目の前にいる梢と。
 偽物?本物?
 わからない、わからない!
 ―椿、私のところへ来るのよ、死の世界へ!
 梢に引っ張られ、椿の世界が闇に染まる。
 闇に引っ張り込まれる直前、楓の言葉が聞こえてきた。
「椿ちゃん、この梢が本物の梢かどうか見抜けるのは椿ちゃんだけなのよ!本物の梢を知っているのは椿ちゃんだけなんだから。見て、そして答えを出すのよ。本物かどうか…」
 声は遠ざかり、静寂が広がる。
 本物の梢を知っているのは私だけ…
 そう、私だけ。それなのに私自身がわからない。
 本物の梢って、どんな人だっけ?
 思い出せない。何故?思い出せないわけがないのに。
 あんな一緒にいたのに。どうして思い出せないの?
「梢!姿を見せて!」
 叫ぶと、梢が闇の中から姿を現した。
 ―さあ、椿。一緒にいきましょう。
 梢がどんなに優しく笑っても違和感がつきまとう。
 梢はこんな風に笑わなかった。
 それはわかるのに本当の梢の笑顔は思い出せない。
「笑ってよ、梢。私を安心させて」
 ―どうしたの?椿。私、上手に笑ってるでしょう?
「違うのっ!その笑顔じゃないの!」
 感情の高ぶりを椿は抑えられなかった。
 梢はそんな椿に構わず、椿の手を取る。
「いやっ!」
 椿がはねつけると、梢の態度がガラリと変わった。
 ガシッと乱暴に椿の腕をつかむ。
「いたっ!」
 痛くて腕を動かすと頬をぶたれた。
 ―おとなしくしろっ!今頃抵抗しても無駄なんだよ。
「梢、笑ってよ。昔のように笑ってよ」
 ぶたれた頬が痛かった。それ以上に心が痛かった。
 ―どうでもいいでしょう、そんなこと。
 どうでもいい?
 どうでもよくなんかない。
「笑ってくれなきゃ嫌。笑ってくれなきゃ一緒にいかないわ」
 どんなにもがいても梢の手は離れない。離そうと思えば離そうとするほど捕まっていく。
「笑ってよ。そうすれば、どこへだって一緒にいくから。笑ってよ、梢!」
 怖い。
 答えが出てしまいそうで怖い。
 梢が本物の梢じゃないと。
 私の大好きな梢じゃないと…
 ―無理よ、椿。だって私、悪霊ですもの。
 ニヤリと笑った瞬間、椿にはこれを梢と呼べなくなっていた。
 答えが出てしまった。
「助けて、梛くん!」



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