季節を抱きしめて6





 梛は林に押されるまま一歩踏み出した。
 目は真っ直ぐ梢を見ている。
 ―フフッ、あなたのハッタリには驚いたけど、もう無駄よ。椿は私が梢だということを信じてくれたんですもの。
 梢の嫌みったらしい言葉に梛は頷いた。
 なんも弁解をすることもなく、ただ素直に。
 ―わかったなら、邪魔をしないで。はやくここから立ち去って!
「梛くん…」
 どうしてなにも言い返してくれないのだろう。私がこのまま梢のところへいっても彼はどうでもいいと思っているのだろうか。
 梛には椿の声が自分に救いを求めているように聞こえた。
 梢に会って梛はずっと考えていた。梢も椿もどっち幸せになれる方法を。
 椿が梢のもとへいっても二人が幸せになれるはずがないと梛は知っていた。
 悪霊は常に新しい餌食を求め、さ迷うものなのだ。椿を得ても、悪霊の飢えが乾くわけがない。
 かといって、梢を消滅させるわけにはいかない。ここで消滅させてしまったら梢の憎しみも椿の罪悪感も一生消えることなく椿の胸に大きな傷として残り続けてしまう。
「梢さん…ぼくは梢さんを消滅させたくない」
 梛の瞳にみんなは強い意思を感じ、誰一人梛の目をそらすことが出来なかった。
「ぼくは昔の梢さんに戻って欲しいんだ」
 ―昔の私…?
「生きていた頃の椿さんと仲の良かった頃の梢さんに戻ってください。そうしたら、そうしたら…」
「…梛くん…」
 どうして彼はあんなに純粋なのだろう。
 何故、彼はいつも物事を真っ直ぐに見つめることが出来るのだろう。
「私は…私は…」
 彼のように真っ直ぐ見つめることが出来なかった。
 簡単で単純でとても大切なことに気づくことが出来なかった。
 自分の罪を責めることで頭がいっぱいで他のことなんか考えられなかった。
 私はなんのために死ぬの?
 誰のために死ぬの?
 自分が梢を殺したから?罪を償うために死ぬの?
 違うわっ!私は…私は…
「…梢のことが大好きなのよ…」
 そうよ、私は梢のことが大好きで大好きで…それが一番大切なことなのよ。
「…そうしたら天へ昇れるはずなんだ!」
 ハッキリと言い切った梛に椿は目を見張った。
 ―天へ…昇れる?
 梛は力強く頷いた。梢の疑問を打ち消すように。
「バッ、バカなっ!悪霊が浄化出来るわけないだろう!」
「出来るっ!」
 林の声を遮り、梛は強い口調で言い退けた。
「本物の梢さんなら出来る!」
 真剣な目で梢を見つめる梛に林はなにも言い返せなかった。
 頭では梛の言っていることがデタラメに思えてもだ。
「梛ちゃん、綺麗ね…」
 話の流れに沿わない楓の言葉に林はこけそうになった。
「あ、あのなあ。楓」
「彼、きっといつか自分の力で浄化することが出来るわ。誰よりも輝いているもの…」
「楓!」
 楓の言葉に林は目を見張った。
 楓は黙って梛を見ていた。眩しそうに目を細めて。
「…ああ、そうだな…」
 林も目を細め、梛を見る。
 梛みたいに真っ白で汚れの一つもない幽霊なんて初めてだった。
 なんでこいつが幽霊としてこの世に留まっているのか不思議に思ったくらいだ。それほど梛には未練とか後悔という感情が見当たらなかった。
 真っ先に天国に行って当たり前の奴なのに、どうしてこんな回り道をしているのか。
 まあ、どうせ結果は同じか。
 楓の言うとおり、あいつは自分の力で天国へいっちまうのさ。おれたちを置いてな。
 そうだな、梛なら不可能も可能にしちまうかもな…
「昔を思い出すなんて難しいことしなくてもいい。邪念を捨てるんだ、自分の心を静めろ」
 林の言葉に梛は振り返った。
「出来るって言ったのは梛だろ?」
 軽く笑う林に梛は笑顔で頷く。
「梛くん!天へ昇るってどういうことなの?それは梢にとって一番楽になれる方法なの?」
 梢のために、なによりも梢にとって最善な方法を椿は選びたかった。そのためだったら自分の命だって惜しくない。
「天へ昇るって、とっても温かくなることなんだよ。心も体もポカポカして幸せな気持ちで天国へいけるんだ」
 優しく笑う梛に椿は安心したように笑った。
「梢…もう苦しまないで天国へいこうよ」
 梢は椿の言葉に戸惑ったような視線を送る。
 ―そんな天国だなんてそんなのあるかどうかわからないじゃない。
 梢の不安の声に椿はなにも言えなかった。
 天国があるのかなんて自分にもわからない。
「天国はあるよ、絶対にある」
 そんな椿の戸惑いは梛の一言で驚くほど簡単に拭われた。
 本当に梛の言葉には信じられないほどの信憑性がある。
「あるわ、梢。天国はあるのよ」
 椿の自信満々の声に梢は首を横に振る。
「梢…」
 ―一人じゃ嫌。天国があるっていうならそこにいってもいい。でも一人は嫌。一人は怖いの!
 梢のひどく弱気な瞳に椿は小さく笑みをもらした。
「誰が一人でいかせるって言ったの」
 ―えっ、じゃあ、椿!
 パァーと梢の顔に笑みが広がる。
「私も一緒にいくわ」
「椿さん!」
 驚きの声を上げる梛に椿はゆっくりと振り向いた。
「ありがとう、梛くん」
 ほほ笑む椿が悲しそうに梛には見えた。
「だめだ、椿さん!」
 どんなにとめても椿は首を横に振るばかりだった。
「私が決めたの。梢のことが大好きだから、梢と一緒にいてあげようと思ったの」
 梛はなにも言うことが出来ず、ただ椿を見ていた。
 とめればいいのか、とめなくていいのか梛にはわからなかった。
 二人が幸せになれる方法と、この方法が言えなくもなかったから。
 でも…椿さん…
 梛にはどうしたらいいのかわからなかった。
「なんだかんだ言って、あなた本当は椿ちゃんの命が欲しいだけじゃない!」
 楓の突然の怒鳴り声にみんなの視線が楓に集中した。
「さっきから黙って聞いていれば見苦しいわよ、あなた!ああ言えばこう言って、こう言えばああ言って。結局椿ちゃんの命が欲しくて心にもないこと言ってるだけじゃない!」
「やめて!それ以上、梢を悪く言わないで!」
「うるさいっ!椿ちゃんも椿ちゃんよ、梢が大好きだから一緒にいくですって。ふざけないでっ!そんなので天国にいけるわけないじゃない!そんなので天国にいけるなんて思わないでよっ!!」
 楓の悲鳴にも近い声に椿は黙り込んだ。
 楓には暗く悲しい過去があったのかもしれない。自分よりも、もっと深い悲しみを背負っているのかもしれない。
 ―いけるわ!椿と一緒ならいけるもの。
 負けずに梢は言い返した。
 ―私だって椿のことが大好きだから、だから椿を連れていくのよ。誰でもいいわけじゃない。椿だから連れていくのよ。
 梢の言葉が椿には嬉しかった。
 今まで生前の梢とはあまりに違う梢を見て不信感を募らせてきたが、今梢の疑いがゆっくりと心の中から消えていった。
「大好きだから。親友だから奪えない命もあるだろう?」
 林の静かな問いに梢は黙った。
「本当にそいつを好きっていうのなら、命なんて奪えないと思うぜ」
 淡々とした口調で話す林の思いも椿には届かなかった。
「でも本当に好きだからこそ奪いたい命もあります!」
 きっぱりと言い椿は梢のもとへ歩き始めた。
 もう椿には迷いはなかった。
「私たちじゃあ説得は無理だったみたいね」
「ちくしょう、あのバカが!」
 悔しそうに言う2人にはなにも出来ず、椿の後姿を見送ることしか出来なかった。
「梛!おまえは椿が死んでもいいのかよ」
 最後の頼みと梛に怒鳴ると、
「でも…椿さんが決めたことだから…」
 気弱な声が返ってきた。
「キー!情けねえ!!」
「駄目よ、梛ちゃん。今は椿ちゃんの言葉よりも自分の心に忠実になりなさい」
「…自分の心?」
 梛が聞き返すと楓はきっぱりと言い返した。
「そうよ、後悔しないために!!」
 梛は頷くと椿のもとへ走った。
 椿を止めるために!
「椿さん、行っちゃ駄目だー!」
 ピタリと椿の足が止まる。
 全ての迷いを振り切り、なににも彼女の歩みを止めることが出来なかったはずの彼女の足が止まった。
 梛の声に。
 梛の声だけに。
「来ないで、梛くん」
 振り向かず、震える声で椿は梛を拒否した。
 拒否したのは梛が怖かったから。梛によって動く自分の心が怖かったから。だから拒否した。だから振り向けなかった。
「椿さん」
 止めても梛は近づいてくる。
 椿は動けない。その場から動けなかった。
 望んでいる、自分は梛が止めてくれることを。
 でも梢が大好きという気持ちだって嘘じゃない。
 どっちも本当。だから選べない。片方なんて選べない。
 梛くん…梢…
 2人とも大好き。2人とも信じている。2人が私を必要としてくれているのはとても嬉しい。
 両方を選びたい。でもそれは出来ない。
 ―椿…
 梢の声に椿は顔を上げた。そこには今にも泣き出しそうな梢の顔があった。
 ―…ツ…バキ…
「梢!」
 瞬間、椿は梢に手を伸ばした。
 とっさの出来事だった。無意識のうちの動作だった。
「椿さん!」
 慌てて梛が駆けつけてきた時には遅く、椿は梢の闇に捕らわれてしまった。
「キャー!」
 手を取った瞬間、梢の体から闇が吹き出し2人を包んだ。
「椿さん!」
 梛がその闇に手を伸ばした瞬間、闇が梛を包みこもうとする。
「梛!危ない!」
 ボンッと梛の目の前でなにかが弾け散った。
 林が光の球で闇から梛を助けたのだ。
「梛、こっちに来い!」
 再び梛に襲いかかる闇を光の球で防ぎながら林は叫ぶ。
 梛が2人のところへ着いた時にはもう闇は襲ってこなかった。
「なんか、やばくなってきたな」
 林は手を下し、ため息をつく。
「楓!椿さんを助ける方法はないの?」
「梛ちゃん…」
 楓は初めて見る梛の姿に驚いた。
 焦り、苛立ち、戸惑い、そして怒り。今までになかった梛の感情がここにあった。
 これは絶対椿ちゃんを助けなくちゃね。
 …たとえ方法がなくても。
「一度捕まってしまったら椿ちゃんを悪霊から分離させることは不可能だわ」
「じゃあ、俺の光の球で悪霊をぶっ飛ばすっていうのは?」
「駄目よ、それじゃあ椿ちゃんまで消滅しちゃうわ」
「…知ってるさ」
「林!」
 梛は叫んだ。林が恐ろしいことを考えている。梛の一番避けたいことを。
「最終手段だよ」
「駄目だ!」
 許さない。いくら正当な理由があろうとそれだけは許せない。
 椿さんを殺すなんて…
「梛!」
「助けるんだ!椿さんを助けるんだ!!」
 梛の勢いに林は後ずさった。
 こんなに激しい梛を林は見たことがなかった。
 助けたい。助けてやりたいよ。梛がこれほどまでに思う人を。
 でも、助ける方法がないんだ…
「助けるのよ。方法なんてないわ。でも助けるのよ、絶対に…」
「楓…」
 楓は林の情けない顔を見てクスッと笑うと、バァンッと思いっきり林の肩を叩いた。
「大丈夫よ、大丈夫。ネッ」
 無責任でどうしようもない楓の言葉に林は目を丸くしたが、次の瞬間大きな笑い声を上げた。
「おまえらバカだよ。そうだね、でも大丈夫だよなっ」
 ニカッと歯を見せ笑う林に、楓と梛は大きく頷いた。
「世の中はいつでも正義の味方よ」
 梛は楓の言葉に真剣に頷いた。
 たとえ神様だって椿みたいな綺麗で優しい人を殺すことなんて許せないはずだ。
 椿の親友だって彼女を殺すことなんか出来ない。
 梢なら、わかってくれるはずだ。
「梢さん、椿さんを離してください。梢さんが椿さんを殺せるわけがないんだ」
 梢の返答も聞かず、梛は話し続ける。
「今は梢さんが悪霊だから椿さんを殺そうと思ってるんです。悪霊でなければ椿さんを殺せるわけがない。だって梢さんは椿さんを大好きだから」
 梛はピタリと言葉を止めた。
 梢が低く笑いを漏らしていた。
 ―大好きだから殺せないですって?笑わせるんじゃないよっ!
 地の底から響いてくるような声で梢は笑った。



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