季節を抱きしめて4





 梛は窓側の壁にもたれ、ボーとしていた。
 後ろから雨の音がする。
「椿さん…」
 呟き、梛は目を閉じた。
 この頃いつも同じことばかり考えている。
 椿の黒いオーラが濃く大きくなるたびに梛の不安と焦りも大きくなる。
 なにをすることも出来ず、ただ見守ってきたけれど今動かなければ椿を永遠に失ってしまう。
 動く意志はあるけれどなにをすればいいのかわからない。
 黒いオーラの正体はわからない。でも、あの黒いオーラが椿の命を奪おうとしていることはわかる。
 今、動かなければ椿さんが…
 ただ見つめているだけで幸せだった。彼女の柔らかくて温かいほほ笑みが大好きだった。
 なのに今はそのほほ笑みを見ることが出来ない。あの黒いオーラが彼女のほほ笑みを奪ってしまった。
 あのほほ笑みを彼女に返してあげたい。そして、もう一度あのほほ笑みを見ることができたら…
 ガラッ。
 不意に教室のドアが開き、梛は視線をドアに向けた。
「…椿…さん…」
 入ってきたのは椿だった。梛は驚き、その名をもらす。
 自分の名前を言われ、梛はびっくりした。
 それもそのはず椿にとって梛は見ず知らずの少年だからだ。
 その様子にもっとびっくりしたのは梛の方だった。
 梛の姿を普通の人間が見ることは出来ないはず、何故なら彼は幽霊だからだ。
 梛自身が意識的に椿に姿を見せようとしなければ、椿に梛の姿を見られるはずがない。
 椿に自分の姿を見ることが出来る力がないのは今までの結果から確かだった。
 前に梛は彼女の目の前に姿を見せたことがあった。彼女の目はしっかりと自分のいる方向に向いていたのに彼女は梛の姿を見ることは出来なかった。
 なのに今、椿は梛を見ていた。梛の存在を認めていた。
 梛を見ていた椿の目が見開かれた。
「…どうして泣くの?」
「えっ…」
 椿に聞かれ、梛は自分が泣いていることに気づいた。
 胸の奥が熱かった。椿に見られて、自分に気づいてもらえて梛の胸の奥は熱くなり、自然と涙が流れていたのだ。
 嬉しいんだ。君と会えて…君がぼくを見てくれていることが、どうしようもなく嬉しいんだ。
 言葉に出来ない気持ちを梛は胸の奥で叫んだ。
 涙が止まらずボロボロと泣き続けていると椿の頬に一筋の涙が伝った。
「椿さん!」
 叫んだ梛に椿は自分の涙を拭い、ほほ笑む。
「不思議。あなたの涙があまりにも素直だったから…」
 つられて涙が出てしまった。
 梛は涙を零しながら、静かに泣き続ける椿に見とれていた。
 椿は不思議そうに梛を見ていた。
 梢が死んで、悲しくて悲しくて泣き叫びたい時に涙は出なかったのに、彼の涙を見た途端スルリと涙が出てきた。
 それがどうしてなのか椿にはわかるような気がした。彼のオーラがとても温かいから、彼の視線を知っていたから、いつも近くから遠くから彼を感じていたからだ。
 はっきりと説明できない。でも言い切れる確かさを彼女は持っていた。
「聞いて欲しいの」
 ポツリと椿が呟く。
「あなたに話したいの…」
 苦しそうに言う椿に梛は一生懸命頭を振った。頭が首から転げ落ちるほどに。それを見て椿は安心したように笑った。
「名前を教えて欲しいの」
「梛」
「梛…」
 椿は目の前にいる少年の名を口にした。自分の心に刻み込むように。
 梛は呼ばれて顔を赤くした。なんだか、くすぐったい。
 素直な反応に椿は頬を緩めた。
 何故だろう。この少年に絶対の安心感を感じる。
 じっと椿は梛の顔を見る。
 椿に見つめられて梛は思わず目をそらした。胸の鼓動が彼女の視線に耐えられなかった。
「つ、椿さん。話したいことって?」
 目をそらしたまま梛は恥ずかしさに絶えられず口を開いた。
「ええ」
 椿は言われてそのことを思い出し、梛の隣に座り込む。
 梛の肩がピクリと動いたが気にせず話し始めた。
「私がこの教室に来たのは、この教室が"幽霊のたまり場"だからなの…私、この教室に友人の幽霊を探しに来たの」
 妙な居心地の良さを感じていたが、その言葉を聞きいっぺんで梛は目が覚めた。
「その友人は私の親友で梢という名前で、私…」
 椿は顔を歪め、急に口を閉ざした。
 梛は椿を急かさなかった。いや、急かせなかった。梛の目は椿の背後にたたずむ黒いオーラに釘付けになっていた。
 椿に会えて心が浮き立ち、すっかり黒いオーラのことを忘れていたが、椿の言った幽霊の二文字で黒いオーラを思い出すことが出来た。
 そして、やっと梛はこの黒いオーラの正体を知ることが出来た。これは幽霊だ。自分と同じ幽霊だ。
 気がつかなかったのは、この黒いオーラは一人の幽霊じゃなかったからだ。複数の幽霊が集まり同化して出来た一個の幽霊なのだ。
 それにこの幽霊の感情があまりにも人間離れしているからだ。憎い・悔しい・苦しいという負の感情しか感じられない。とても同じ幽霊だとは思えなかった。
「…私…私、梢を殺してしまったの」
 椿の言葉で梛はあの黒いオーラ、いや黒い幽霊から目を離すことができた。
「私が梢と一緒に本屋へ行かなかったから梢は殺されたの。だから私が殺したのよ、私が!」
 苦しそうに言葉を吐く椿を梛は必死になだめた。これでは全然話がわからない。
 椿は梛になだめられ、ポツリポツリとゆっくりと言葉を探しながら、事実だけを話した。
 梛は椿の話を聞いて胸が痛くなった。椿は梢の死を自分のせいにして苦しんでいるのだ。本当は椿のせいじゃないのに。
「それで梢が夢の中で私を呼ぶの。私が死んだのはおまえのせいだって。おまえもこっちに来いって。私、ただの夢とは思えなくて、梢はきっと学校のどこかで私を待っていると思ってここに来たの」
 椿が黙っても梛はなにも言えなかった。
 ただの夢だよって笑い飛ばしたかったけど、椿の後ろの黒い幽霊がそうさせてくれなかった。
 もし梢が自分が死んだのは椿のせいだと思って憎んで、黒い幽霊と同化しているならその夢はただの夢ではなくなる。
 そう考えてみても梛にはそれが本当なのか違うのかわからない。彼にはこの黒い幽霊の中の一人一人を見極める力はない。
「私、もし梢が現れて一緒に死んでって言われたら迷うことなく梢の手を取るわ」
 椿の言葉に驚いて梛は椿に顔を向けると椿は悲しそうにほほ笑んでいた。
「もう一度梢に会いたいの。憎んでてもいい、恨んでてもいい。梢に会いたい…」
 泣いてしまった椿に梛はなにもしてあげることが出来ず、ただ黙って見守った。
 出来るはずがない、こんなに優しい人を誰も憎めるはずがない。
 梛は心の中でそう思った。
 そして優しいから幽霊が椿に惹かれるのだと。黒い幽霊もこんな彼女の弱みに付け込んだのだ。
「憎んでないよ…」
「えっ」
 梛の声に椿は顔を上げる。
「誰も椿さんを憎めないよ」
 驚くほど優しい声と優しい笑顔が椿の心を包んだ。
「…私…悲しかったの。梢が死んで、梢の夢を見るたび、梢の笑顔を忘れてしまって…」
「うん」
「本当の梢を見失って…もう一度梢の笑顔を見たくて、ただそれだけで」
「うん」
 言葉の合間に打つ梛の相槌が嬉しくて、椿はボロボロと涙と一緒に胸の奥に隠れていた本音を話し続けた。
 そして梛は今はっきりとわかった。椿を救えるのは自分しかいないと…

「話を聞いてくれてありがとう」
 椿のお礼の言葉に梛は照れくさそうにはにかむ。
「また話を聞いてくれる?」
「ぼくでよければ…」
 梛の返事を聞いて安心したように椿はほほ笑み教室を出る。
「またね、梛くん」
「うん、椿さん」
 梛はこの別れのあいさつに感動した。
 お互いの名前を呼び合い、次に会うことを許された証。そう、もう椿とは他人じゃない、友人と呼べなくても知り合いにはなったのだ。
 椿はそんな梛の気持ちも知らずに自分の教室に戻ろうとした。
 そう言えば梛はどうしてこの教室にいたのだろうか。
 突然湧き上がった疑問だった。この教室は確か立ち入り禁止になっている。普通ならば誰もいるはずのない教室だ。
 椿が質問しようと口を開いた時、
「梛!」
 廊下から梛を呼ぶ声が聞こえた。
「林」
 梛は自分が呼んだ少年、林のもとへ駆け寄る。
 椿は少し躊躇したが気にせず自分の教室へ帰っていった。
 梛はその後ろ姿を名残惜しげに見つめた。
「どういうことだよ、梛」
 少し怒った風に林が問いつめてきた。
「うん、あのね…」
 梛は椿と話した全てを林に話した。
 これから頼むことは、これらを話さなければ成立はしない。林には椿の事情を知ってもらわないと困るのだ。
「で?なんなわけ?」
 全てを黙って聞き終えて林は梛に尋ねた。
 梛は自分になにをして欲しいのかわかっていながら林は聞いた。一応、そういうケジメはつけておかなければいけない。いや、本当は自分が梛の口からその言葉を聞き出したいだけなのだが。
「林に椿さんを助けるのを手伝って欲しいんだ」
 梛の言葉に林は嬉々として頷いた。
 この言葉を待っていたんだ。
「頼むが遅すぎるんだよ」
 ポンと肩を叩くと、
「ごめん」
 梛は照れくさそうに謝った。
「謝ることなんかないわよ、梛ちゃん」
 ヒョコッと、どこからか楓が現れる。
「私も手伝ってあげる」
 ニコリと楓がほほ笑む。
「まっ、おれたち二人が揃えば最強だからなっ」
 偉そうに言う林に楓は大きく頷く。
「私たちに任せておきなさい、梛ちゃん」
 心強い二人の言葉に梛はほほ笑んだ。
 二人の優しさに感謝しながら…



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