唯の様子が変わった。
それは俺にしかわからない些細な変化だった。
いつも通り明るく振舞っているけど、唯は俺の嘘を引きずっていた。
ふとした時に見せる暗い表情、重々しいため息がそれを物語っていた。
特に俺と芹花が一緒にいると、唯は複雑な表情を見せた。俺と芹花の仲を離したいような、くっつけたいような曖昧な態度を取るのだ。
そして俺と一緒にいる時間が明らかに減った。前みたいに俺の後を追いかけたり、甘えたりすることがなくなった。それが唯のどのような意図なのかは、俺にはわからない。
ただ今までにない唯の変化に俺は戸惑うだけだった。どうにかして昔の関係に戻したかった。しかし唯のかたくなな態度がそれを拒んでいた。
そんな俺の気分に反映したように雨が降っている。
傘を持っていない俺は昇降口に立ち尽くしていた。
雨が降ってきたのは午後からで午前中は晴天だった。もちろん雨が降るなどと思ってもいなかったので傘などあるわけがない。
どしゃぶりの雨に暗い気分がますます暗くなる。
俺は雨の中を駅まで突っ走る気にもならなくて、ただぼーと雨を見ていた。雨はまだまだやみそうにない。
芹花はバイトでとっくに帰っていた。怜哉は雨にぬれて帰った。思えばその時のほうが雨足がひどくなかった。おとなしく怜哉とぬれて帰っていたほうが良かったのかもしれない。
そんなことを考えながらも俺は空を見た。どんよりとした雲は厚く、雨をたくさん含んでいそうだ。これは雷がなるかもしれない。
そう言えば唯は雷が苦手だった。雷の音を聞いて泣かなければ良いのだが…
唯が今、どこにいるかなど知らない。学校にいるかもしれないし、帰りの途中かもしれない。傘を持っているのか、持っていないのかもわからない。
「…翔ちゃん」
唯のことを考えていたら、本人がやってきた。
「今帰りか?」
唯と2人きりになるのは久しぶりだった。俺は胸の鼓動を押さえて、唯に話しかけた。
「うん、透子先輩がいるかなって思って部室に行ったんだけど、いなかったんだ…」
2人きりになったことに唯は戸惑っているようだった。視線がキョロキョロと動いている。
「翔ちゃんは?」
「傘持ってないから帰れないんだ」
「そうなんだ…」
ギクシャクした会話は長く続かず、沈黙が落ちる。お互いうつむき、一言も話さないまま時間は過ぎて行く。
前は唯と会話が続かない時なんてなかったのに、今は何を話せば良いのかさえも思いつかない。何を話しても無駄なような気がする。唯の心を溶かせない。
「唯は傘を持ってないのか?」
いろいろ考えた結果、口に出たのはつまらない質問だった。傘を持ってないのかなんて質問、答えはわかりきっている。持ってたら、とっくに帰ってるはずだろうが。
「…」
しかし俺の質問に唯は答えなかった。
くだらない質問に怒っているのだろうかと思い唯を盗み見ると、唯は不安そうな瞳でじっと空を見ていた。
「唯?」
俺が唯を呼ぶのと同じ瞬間、雷がなった。
「キャア!」
唯が叫び、その場にうずくまる。
唯は雷が落ちるのを恐れているようだ。そして唯の不安通り、雷は落ちた。
「キャア!」
2回、3回と雷が落ちるたびに唯の悲鳴も上がる。
「唯」
俺はうずくまったまま震えている唯に近づいた。落ち着かせようと頭をなでると、唯が凄い勢いで抱きついてきた。
「うわっ」
これは抱きついてるなんて優しいもんじゃない、締められてるようなものだ。ギュウギュウと力いっぱい体を締められるが、それでも相手が非力な唯なので苦しくはない。
「落ち着け、唯」
ぽんぽんと唯の肩を叩いてなだめる。
「翔ちゃん、翔ちゃん」
うわ言のように俺を呼ぶ唯に優しく相槌を打ってやる。すると落ち着いてきたのか、次第に体から力が抜けていく。
「大丈夫、大丈夫」
肩を叩く手を休めず、囁くように言葉を繰り返す。その間、唯はずっと俺を抱きしめる手を緩めなかった。
やがて雷は去り、雨がやみはじめても、俺たちは離れることなくお互いを抱きしめていた。
唯の腕には先ほどの力はなかったけど、掌がぴったりと俺の背中に触れていた。俺も唯をしっかりと抱きしめている。
不思議な時間が流れていく。甘くも、激しくもなく、ただ静かな時間。お互いの体が隙間なく触れ合い、1つになっているような気分。鼓動さえも1秒のずれもなく重なっている。
俺の心の中は安堵が広がっていた。そこにあるべきだったものが、戻ってきたような感じだ。唯が腕の中にいるのが当たり前のような気がする。唯は俺のものなんだ。唯はここにあるべきなんだ。
「唯、俺のそばにいてくれ。俺にはお前が必要なんだ」
言葉が心から溢れてくる。唯が遠くなった日々は俺にとって拷問だった。唯に側にいてほしい。唯が側にいなくちゃ俺は駄目なんだ。
俺の言葉に驚いたように唯が顔を上げた。
「私、まだ翔ちゃんの側にいていいの?翔ちゃんは、もう私のことが必要なくなったんじゃないの?」
唯は真っ直ぐ俺を見つめながら、信じられないとばかりに俺に問う。
唯が芹花のことを言っていることがわかった。だけど芹花と唯は違う。芹花だったら、こんな熱い気持ちにならない。
「そんなわけあるもんか!俺には唯が1番大事なんだ」
力いっぱい唯を抱きしめてやる。唯の不安が吹き飛ぶぐらい、強く強く力を込める。
唯は放心状態で俺の言葉を聞いていた。折れそうなくらい強く抱きしめられても唯はぴくりとも動かない。
「…私、もう翔ちゃんの側にいちゃいけないんだと思ってた」
つぶやく唯の瞳には大粒の涙が溢れていた。ぎゅっと抱きしめる手に力がこもる。
「でも、でも私、翔ちゃんの側にいたい!翔ちゃんを離したくない!私、翔ちゃんが大好きなんだよっ!!」
唯は自分の想いを叫んだ。心の中に閉じ込めていた想いを爆発させた。その告白は俺に伝えたかったのか、それとも抑圧してきた感情がついに耐え切れなくなったのだろうか。唯は泣きながら辛そうに俺に想いを打ち明けた。
唯の告白に俺の胸は震えた。唯の強い想いが俺の心を熱くした。俺はこの言葉を待っていたのかもしれない。初めて病院で会ったころから、こうなることは予感していた。その時から俺はわかっていたんだ。唯が俺の1番大事な人になるって。
「唯…」
俺は泣き続ける唯の顔を俺のほうに向けると、そっと唯の唇に自分の唇を重ねた。
唯はゆっくりと目を閉じ、俺に体をゆだねた。俺は唯の体を支えながら、そのままキスを続けた。
唯の唇は俺の唇となじんでいて、重なり合った部分から体が溶けてしまいそうだった。
「翔ちゃん、好き…好き…」
瞳の端に涙を残しながら、唯が呪文のように幾度もつぶやく。俺はキスでその言葉に答えた、何度も、何度も。
しかし唯の顔は切なさを残したままだった。キスを重ねても唯の表情が幸せで満ちることはない。
「翔ちゃん…」
か細い唯の声は、消えてしまいそうな儚さを感じた。俺は唯をとどめようと唇を重ね続けた…