ようやく家にたどり着いたのは夜遅くになってからだった。
 あれから、頭をフル回転させて怜哉の質問の答えを考えたのだが、答えはでることなく今に至っている。
 家の明かりはついていない。両親はまだ2人とも帰っていないだろうことはわかっていた。父は仕事、母はどうせ近所の奥様方と遊びほうけているのだろう。
 別にそれを責めているわけではない。かえって、そのほうが楽だ。
 家の門の前に誰かが佇んでいた。暗くてここからでは顔が見えない。誰だろうと小走りで家に近づく。
「唯…」
 家の門の前にいたのは驚いたことに唯だった。
「翔ちゃん」
 俺を見つけ唯はほっとしたようだが、すぐにその表情は曇ってしまう。昨日のことを話しにきたのは一目瞭然だ。
「とにかく中に入れよ」
 それっきり黙り込んでしまった唯を中にあがらせる。
「おじゃまします」
 唯は俺の家に上がるときょろきょろと辺りを見回した。そう言えば、唯が俺の家に来るのって初めてのことだ。俺も唯の家にいったことないし。
 俺は唯を自分の部屋まで案内する。唯は俺の部屋中をせわしなく視線を走らせる。
「座れよ」
 その落ち着きのない様子に俺は笑みを零しながら、唯に座布団を渡した。
 唯は座布団を受け取り、適当に座布団を敷いて座るが、それでも視線が休まることはなかった。
「何か面白い物でもあるか?」
 俺が聞くと、唯は何度も首を縦に振った。
「楽しいよ」
 唯の表情に笑顔が見え、俺は心底安心した。
 その勢いに乗せて俺は昨日のことを唯に話そうと思った。
「昨日のことなんだが…」
 俺の言葉を聞いた途端に唯の顔色がさっと変わる。
「ごめんなさいっ!」
 俺が何かを言う前に唯がいきなり謝りだした。
「昨日は取り乱してごめんね。いきなり逃げ出しちゃって、翔ちゃんびっくりしたでしょう?」
 唯の謝罪を俺は呆然と聞く。何故唯が謝ってるのか俺にはわからない。
「待てよ、唯。謝るのは俺のほうだぜ」
 唯の謝罪を遮り、俺は自分の非を打ち明けた。
「昨日の放課後は芹花の相談にのってたんだ。芹花は俺に相談してるってことを誰にも知られたくないだろうって思って唯に嘘をついたんだ。でも嘘はいけないことだよな。ごめん、唯」
 頭を下げると唯が頭を振った。
「翔ちゃんが悪いんじゃないよ。勝手に誤解した私が悪いんだもの」
「唯…」
 唯の優しさに俺はありがたくも思ったが、呆れのほうが大きかった。人が良すぎるんじゃないかと思う。
「唯、もっと俺を責めていいんだぜ?俺が悪かったんだからよ」
 そう言っても唯は笑って首を横に振るだけだった。
「もう、やめようよ。2人とも悪かったことにしようよ」
 しつこく食い下がる俺に唯が無理矢理話を終わりにした。俺は納得できなかったが、唯が困ったような表情を見せたので渋々それに従った。唯が良いって言うのなら、俺がしつこく言っても仕方ないことだ。
「ところで唯、昨日のぼろぼろの格好はどうしたんだよ?」
 俺は唯の部室での格好を思い出した。制服は汚れ、足を擦りむけて大泣きしていたのだ。
「あれは転んだんだよ」
 唯が小さな声で言って、恥ずかしそうにうつむいてしまった。
「転んだ?」
 唯らしい答えに俺は吹き出した。なんだか心配していたのが馬鹿馬鹿しいぐらい簡単な答えだった。
 俺が笑ったのを見て唯が頬を膨らます。
「笑わないでよ、すっごく痛かったんだからね」
「わかってる、わかってるって」
 唯の怒りを落ち着かせように何度も頷くが、俺の笑いは収まらない。
「もう、帰る」
 とうとう唯はへそを曲げてしまった。俺はそんな唯が可愛くてますます笑いが止まらなくなってしまう。
 腹がよじれそうな勢いで笑う俺に、唯は怒りよりも心配になってきたようだ。気が触れたのかとでも思ってるのだろうか。
「大丈夫、翔ちゃん?」
 唯は優しく俺の背中をなでてくれた。ゼェハーゼェハーと肩で息をしながら自分を落ち着かせる。笑うのって思ったよりも疲れるんだな。体力消耗したぜ。
 俺が落ち着いたのを見て唯は安心したように微笑んだ。と、唯の視線がある一定の場所でとまる。
 それは…ピアノだった。
「翔ちゃん、ピアノはもう全然弾けないの?」
 唯はピアノに近づきながら聞いてくる。
「いや…少しなら弾けるよ」
 唯が今の俺の顔を見たら震えていただろう。俺の顔は完璧な無表情だった。しかし、唯はピアノに目を向け俺の表情に気づいていない。
「翔ちゃんのピアノ聞きたいな」
 何気なく言った唯の言葉に体がぴくりと反応する。
 ピアノを弾く?誰が、どうして、何のために?
 俺の返答に構わず、唯の手がピアノに触れようと動く。
「触るなっ!!」
 俺は反射的に叫んでいた。ぴくりと唯が身をすくませる。俺のほうを見て、更に唯の体がすくみ上がる。
 俺はどんな表情をしているんだろう。唯がここまで怖がる表情を俺は知らない。
「…翔ちゃん…?」
 唯の震えた声に俺はゆっくりと息を吐いた。
 唯を怖がらせてどうするんだ。唯は別に悪意があってピアノを弾いてくれと言ったわけじゃないんだ。
 落ち着け…落ち着くんだ…
 俺は何回も息を吐きながら、平静を取り戻そうとした。だが、なかなか気は休まってくれない。
 唯はそんな俺を悲しそうに見つめた。いや、唯が見つめたのはピアノだった。唯はピアノを哀れむように見つめていた。
 何でそんな目でピアノを見るんだ。
 俺は疑惑の目で唯を見ながら、何度も何度も息を吐き続けていた。



『next』     『novel-top』