病院の追いかけっこから、唯との距離が縮まった気がする。
2人の間にどこか甘いムードが流れていると思うのは俺の気のせいなのだろうか。
今日も唯と一緒に帰る約束をしている。駅までの短い道程だが、なかなか悪くない。
この掃除の時間が終われば後は帰るだけだった。約束どおり唯と駅までの短い時間を楽しむはずだったのだが…
「放課後、翔に相談があるんだけど…」
芹花が思いつめた表情で俺に相談を頼むものだから、俺は無下にそれを断ることができなかった。
「俺が役に立てる相談なのか?」
思わずそう聞き返す俺は馬鹿かもしれない。でも、俺が相談に乗れることなんてないぜ。聞き上手なわけでもないし、気の利いた言葉をかけてやれるわけでもないし。適任はもっと他にもいると思うんだが。
「翔にしかこんな相談できない」
弱々しくつぶやく芹花がいつもと違って見える。いつもは明るくさっぱりしてるのに、今は頼りなく見える。
「役に立たないかもしれないぜ?」
それでも相談を受けるのを渋ったのは、唯のことがあったからかもしれない。たった1日でも唯との下校の一時をなくしたくなかった。俺もつくづく自分の欲望に忠実だ。
「お願い」
それでも芹花にここまで頼まれれば俺だって嫌とは言えない。芹花は昔からの幼馴染だ。見捨てることなんてできない。
「わかった。場所は、そうだな弓道場の裏がいいだろ?」
俺の提案に芹花が頷く。弓道場の裏は誰も近づかず、人に見られにくいスポットだ。弓道部は活動日数が少なく、月に1回しかやっていないという噂もあるほどだ。弓道場は隅にあるので密会には打って付けの場所だ。
「それじゃあ、また後でな」
「絶対に来てね」
念を押して芹花は教室に戻っていった。
さて問題は唯になんていうかだ。素直に芹花に相談を受けたから一緒に帰れない、と言うのは芹花のことを考えるとためらわれる。芹花は自分が悩んでいるなんて唯に知られたくないだろう。
「嘘をつくか…」
唯には嘘をつきたくないけど、これは人権問題に関わることだから仕方ないだろう。
帰れなくなった嘘の理由を考えながら教室へと戻る。教室のドアを開けようとした瞬間、ドアが開いて唯が出てきた。
「うわぁ!」
思わず悲鳴を上げてしまう。
「どうしたの?翔ちゃん」
いきなりの俺の悲鳴に唯が目を丸くする。
「いや、何でも…」
心の準備ができていませんでしたなんて答えられるわけがなく、俺は曖昧に答えを濁した。
「実はだな、唯…」
俺は覚悟を決めて口を開いた。
「今日の放課後は担任に呼ばれて一緒に帰れなくなったんだ」
唯から視線をそらしたまま一気に言う。むちゃくちゃ不審な態度だ。
「そうなんだ、かいわそう。翔ちゃん」
唯は俺の言葉を疑いもなく受け止め、かわいそうまでも言ってくれた。俺は後ろめたさに胸がずきずき痛んだ。
「悪いな、唯」
この言葉だけはほかの言葉とは違って重みがある。いっそ今ここで土下座したい気分だ。
「悪いのは翔ちゃんじゃないんだから、謝らないでよ」
唯の優しい言葉が今は辛い。悪いのは俺なんだよ、唯。
俺は心の中で何回も何回も唯に頭を下げたのだった。
そして放課後になり、俺は弓道場へと足を向けた。
弓道場にはすでに芹花がいた。俺を見つけると安心したように微笑む。
「来てくれたのね、ありがとう」
「約束しただろ」
「うん、でも迷惑そうだったから…」
芹花の言葉にぐっと詰まる。相談に応じたのを渋ったのは本当のことだった。
「ごめんね…」
申し訳なさそうに言う芹花に俺の心は痛んだ。謝らなければならないのは俺のほうだと思った。俺は自分の都合だけで芹花の相談を断ろうとしていた薄情者だから。
「気にするなよ、それより相談って何だよ?」
できるだけ優しい口調で話しかけると芹花が強張った顔を和らげた。
「実は…」
と、芹花の言葉がとぎれる。芹花は口を開いたまま、固まってしまった。よほど言いにくいことなのだろうか。
「…」
俺は芹花が離してくれるのを辛抱強く待った。下手に促したら余計に言いにくくなるだろう。
「…私、向こうに恋人がいるの」
ためらった後、芹花は小さな声で話した。
恋人!!
内心、驚きながらも黙って芹花の話しを聞く。
「でも、最近彼に好きな子ができたみたいで…」
なるほど、彼氏に好きな子ができたかもしれないという相談だったのか。それは人には言いにくい。信頼している奴じゃなければ話せないものだ。
でも俺が相談にのれるかな?自慢じゃないけど恋愛経験など皆無に近い俺が芹花に何を言えるというのだろう。
困りながらも芹花に目を向けた瞬間、心細そうな芹花の目とあった。助けを求めるような芹花の目に俺はショックを受けた。俺は今までこんなにも弱い芹花を見たことがなかった。
俺の知ってる芹花は常に強く、明るかった。俺や怜哉を前へ引っ張ってくれる姉御的存在だった。確かに女の子だから、俺たちより小さいし、力もないけれど、それを吹き飛ばすようなエネルギーを芹花は体中に詰まっていた。
それなのに、今の芹花はどうだ。目にたくさんの涙をためて、すがるように俺を見ている。自分の恋心を持て余し、震えてる、ごく普通の少女だ。まさか芹花が恋人の心変わりにこんなに動揺するとは思わなかった。もっと、強く立ち向かうと思っていた。
「私、もうどうしたら良いのかわからない…」
嗚咽交じりに芹花が自分の想いを吐く。芹花の頬には涙が流れていた。
「彼が好きなの、別れたくない!本当のことを聞くのが怖いのよ。もし本当だったら、私、私…」
泣きながら芹花は心の底に隠していた想いを吐き出した。それは辛く、悲しく、まるで悲鳴のように聞こえた。
俺はどうしたらいいのかわからなくて、馬鹿みたいに突っ立っていた。芹花が助けを求めていることをわかっているのに、俺には優しい言葉も力強い抱擁も芹花に与えてあげることができなかった。
昔、芹花が俺を助けてくれたように、俺は芹花を助けることができない。芹花を助けてあげたいけれど何を言えばいいのだろう、何をすればいいのだろう、こんな時俺はどうやって芹花に励まされてきたんだ?
記憶をたどると、俺は芹花の温かな手の感触を思い出した。俺が落ち込んでいた時に芹花は黙って俺の頭をなでていてくれた。そうすると不思議と心が落ち着いたことを覚えている。
俺は芹花の頭をそっとなでてやった。芹花は驚いたように俺を見上げたが、やがて穏やかな表情を取り戻した。
「私も昔、こうやって翔を慰めたね」
「ああ、あの時は本当に助かったよ。こうされると驚くくらい穏やかになれたんだ」
「そうね、落ち着くわ…」
芹花は微笑み、目を閉じた。俺はそれ以上口を開くこともなく芹花の頭をなで続けた。
不思議な感覚だ。昔と反対に俺が芹花の頭をなでることになるなんて思ってもみなかった。
昔よりも芹花がずっと近くに感じる。俺は今日初めて本当の芹花を知った気がする。今までは勝手に芹花を強い女の子だって決め付けていたみたいだ。だけど、本当の芹花は弱いところもあって…可愛いよな。
ついつい不謹慎な思いが胸をよぎってしまう。昔は芹花の強いところが好きだったけど、弱いところもなかなか良い。まるで唯に甘えられているみたいだ。
「芹花、無理するなよ」
それは俺に言える精一杯の言葉だった。
俺は芹花の恋人のことも知らないし、恋人が心変わりしたのかが本当なのかさえもわからないが、たとえそれが真実だとしても独りで苦しまなくていいのだと芹花に言っておきたかった。俺は傷ついた心を癒せるような言葉も何もできないかもしれない。でも悲しみのはけ口くらいにはなってやりたかった。
「ありがとう、翔…」
俺の気持ちが伝わったのか芹花が微笑んだ。明るい、いつもの笑顔だった。
「本当に、ありがとう…」
噛み締めるように芹花が感謝の言葉を何回も繰り返す。
「よせよ、照れるじゃねえか」
真っ赤になって言うと芹花がくすくすと笑った。
「これくらいで照れないでよね。せっかく見直したのに」
いつも通りのからかうような芹花の言葉に俺はほっとした。さっきまでの暗い表情が消え、すっきりとしている。
「悪かったな」
すねたように言う俺に芹花がまた笑い出す。
しかし、そんな明るい雰囲気も一瞬で消え去ってしまった。
ガサッ、という草がこすれあう音に目を向けると、そこには放心状態の唯が立っていたのだ。
「唯!」
驚き、唯の名を叫ぶ。唯は俺の声にビクッと反応し、くるりと背を向け何も言わず走り出した。
「唯っ!」
俺はあわてて唯の後を追った。後ろで芹花の声が聞こえたが、構っている余裕などなかった。
意外に唯の足は速く、俺は途中で唯を見失ってしまった。
「ちくしょう!こんなことなら嘘なんかつかなければよかった」
俺を見つめていた唯の表情を思い出し、顔をしかめた。唯は傷ついた表情をしていた。当たり前だ。俺は唯に嘘をついたんだ。嘘をつかれれば誰だって傷つくんだ。
しかも唯は芹花にこだわっていた。芹花が唯の知らない俺を知ってるってことに悲しんでたんだ。それなのに俺と芹花がこそこそ会って、楽しそうに笑いあってたら誤解もするはずだ。それをわかっていながら俺は…最低だ!
もっと最低なのは、芹花にときめいていたことだ。まるで昔に戻ったように、いや昔以上に俺は芹花を可愛いと思った。芹花が辛そうに泣いてるのを見て、守ってやりたいって俺の心は揺れたんだ。こんなの唯に対する裏切りだ。芹花だって真剣に俺に相談したのに俺はそんな邪なことを考えてたんだ。
唯に謝りたい一心で俺はがむしゃらに辺りを捜しまくった。校庭、校舎、校門…どこを捜しても唯の姿は見当たらない。
最後に俺がたどりついた場所は園芸部の部室だった。ここに唯がいなければ、唯を見つけることは絶望的だった。
俺は唯がここにいることを願いながら、ドアに手をかけたが、
「いやあぁー!!」
驚くほどの悲鳴が聞こえ、ドアが盛大な音を立てて開かれた。
「唯!」
俺は唯の姿を見てびっくりした。唯は凄まじい格好で立っていた。制服は汚れ、膝はすりむけていた。目から大粒の涙をぼろぼろと零している。
「!」
唯は俺を見て息を呑むと、俺を恐れるようにして逃げ出した。
「唯!」
唯のただならぬ態度に俺の頭の中は真っ白だった。唯の俺に対するリアクションが理解できなかった。唯は俺を避けるというより、恐れているように感じた。それにあの格好はどうしたのだろう。何か唯の身にあったのだろうか?
「翔君」
急に声をかけられ、俺はその場を飛びのいた。
「そんなに驚かないでほしいな」
苦笑交じりの透子先輩の声に俺は少し落ち着きを取り戻した。
「唯に何かあったんですか?」
それでも早口になってしまうのは仕方ない。俺は詰め寄るようにして透子先輩に尋ねた。
「それは私にもわからないわ。ただ唯ちゃんが泣きながら部室に来ただけなの」
途方に暮れたように透子先輩が話す。
「ただ凄く興奮しているみたいだったわ。よほどのことがあったのね」
透子先輩の言葉に俺はうつむいた。俺はよほどのことを唯にしてしまったのだ。謝らなくてはいけない。許してもらえなくても、謝らなくては…
「その様子を見ると、原因は翔君みたいね」
俺は黙って頷いた。今更言い訳もしたくない。
「きちんと話し合ってね。唯ちゃん、傷ついていたみたいだから」
「はい…」
かすれた声で返事する俺を心配そうに透子先輩が見つめる。
「大丈夫、唯ちゃんは翔君のことが大好きだから、きっとうまくいくわ」
透子先輩の優しい言葉に俺は感謝の思いを込めて頷いた。今はその言葉にすがっていたかった。