「翔ちゃん、久しぶりに病院に行こうよ」
 放課後、突然唯が俺たちが出会った病院に誘ってきた。
「病院に?」
 病院に誘うなんて一般的には変なことかもしれないが、俺たちにとってそれは一種の儀式のようなものだった。
 俺が退院したての頃は、頻繁に病院に行ったものだった。それは俺がくじけそうな時や負けそうになった時に気合を入れなおすために行くものだった。
 ピアノを弾けなくなった俺に世間は冷たかったからな。
 最近はすっかりご無沙汰になっていた。高校生活は順調だし、行く理由もなかったからだ。
「駄目かな?」
 唯の真剣な表情に俺は戸惑った。
 病院に行くってことは、唯自身に何か悩みがあるからだろう。しかし、一緒に高校生活を送っている中で唯が悩んでいるような素振りは見せなかったし、心当たりもない。
「いや、行こう」
 俺は唯の手を引いて教室を出た。
 唯の悩みに気づけなかった自分が情けないが、唯が俺を病院に誘ったということは悩みを打ち明けるつもりなのだろう。唯の悩みを早く聞いてやりたいと思うと、自然と足が速くなってしまう。
 電車に飛び乗り、座るのももどかしくドア付近に立つ。早く着かないかと、イライラと景色を眺める。
 最寄りの駅に着いた時は、息が切れていた。いつの間にか全力疾走していたらしい。俺の後ろで唯がぐったりとしている。
「悪い、速かったか!?」
 俺でも疲れてるんだ、唯には辛い速さだったろう。
「あそこで休もう」
 俺は学校からずっと握っている唯の手を引いて、病院に来ると必ず休む指定席に向かった。唯もそれがわかっているので、おとなしくついてくる。
 俺たちは入院患者が散歩する病院の庭園にやってきた。本来は来てはいけない場所なので、目立たない木陰に座り込む。
 木陰に入ると太陽の光が遮られ、幾分涼しかった。ほっと一息つくと俺はやっと唯の手をずっと握っていたことに気づいた。
 余裕がなかった自分の心に苦笑し、俺は唯の手を離そうとしたが、唯がぎゅっと俺の手を強く握った。
「離さないで…」
 か細い声に俺は唯の手を握り返した。すると唯が気持ちよさそうに目を閉じる。
「唯、話したいことがあるんだろ?」
 俺が尋ねても唯は黙ったままだった。
「唯?」
「…私ね、少し悲しかったの」
 うっすらと唯の目が開かれる。その目は俺に向けられず、切なそうに大地を見ている。
「芹花ちゃんや怜哉君が私の知らない翔ちゃんを知ってることが嫌だったの」
「唯…」
「私、翔ちゃんの1番近くにいるって思い込んでた。本当は芹花ちゃんや怜哉君のほうが翔ちゃんの近くにいるのかな?」
 泣き出しそうな唯の表情に俺の胸がぎゅっと締めつけられる。
 唯がこんなに不安がっていたことなんて全然知らなかった。俺がもっとしっかりしていれば唯をこんな気持ちにさせなかったんだ。
「そんなことない!唯が俺の1番近くにいるよ」
 俺が断言すると、唯が潤んだ目で俺を見上げる。
「確かに芹花と怜哉とは昔からずっと一緒にいたけど、今の俺を1番知っているのは唯だよ。唯が1番俺の近くにいる」
 まっすぐ唯の目を見つめ、心からの気持ちを伝える。芹花も怜哉も近くにいるが、俺の特別は唯なんだってことを教えてやりたかった。
 それを聞くと唯の表情がだんだんと笑顔に変わり、やがて満開となった。
「嬉しいよ、翔ちゃん」
 唯が笑うと目の端からたまっていた涙がスゥーと落ちた。
 俺がそれを指でぬぐってやると、唯は甘えたように指に頬をこすりつけてきた。
 怜哉とは芹花には決して見せられない光景だ。俺の顔、めちゃくちゃ真っ赤になってるよ。
「私、これからもずっと翔ちゃんの1番近くにいたいよ」
 唯の可愛いセリフに俺の心はもうメロメロだ。
「もちろん翔ちゃんは唯の1番近くにいるよ。これからもずっーとね」
 にっこり笑う唯に俺はノックダウンだ。可愛い過ぎる。
 すっかり機嫌の良くなった唯は、来た時は打って変わってニコニコしながら俺に寄りかかる。
「ねえ、翔ちゃん。私たちが初めて会ったときのこと覚えてる?」
 唯に問われ、俺は当然とばかり頷いた。
 俺が唯との出会いを忘れるわけなんてない。
「じゃあさ、あの時みたいに追いかけっこしようよ」
 言うが早く唯は行動を起こした。
 俺の手を離れ、茂みの奥へ走って行く。
「おい、唯!」
 俺はあわてて唯を追いかけた。
 唯は器用に茂みをかきわけて走って行く。俺が茂みに戸惑っている分、差はどんどん開いて行く。
 こうして唯を追いかけていると、まるで昔に戻ったようだ。
 俺と唯が仲良くなったのも、この場所での追いかけっこがはじめだった。
 入院した直後、俺がピアノを弾けなくなったとわかった途端、両親が掌を返したように冷たくなった。そんな時木陰で落ち込んでいた俺に唯がやってきたんだ。
 唯は笑って「追いかけっこしよう」って言ってきた。俺がびっくりする間もないまま唯は身を翻し走り出した。
 反射的に唯の後を追っていた。自分でも何で唯を追いかけているかわからなかった。ただ思いっきり走るってことは気持ちが良くて、俺はがむしゃらに足を動かした。
 時折微笑みながら振り返る唯を手に入れたいと思った。その微笑みは俺に救いを差し伸べてくれる天使のようだった。闇の中にいる俺を光へと導いてくれる灯だった。
 今でも唯が笑ってくれている。俺が迷わないように光へ示してくれる。俺には何故か唯の走る先がわかった。右、左、唯の行動が手に取るようにわかるのだ。まるで唯と意識が繋がってるみたいだ。
 一歩踏みしめるたびに鼓動があわせて大きくなる。ドクン、ドクンと胸が波打つ。今も昔もこの音は変わらない。この心地よいリズムが気分を高まらせてくれる。終わらせたくない、ずっと走り続けていたい。このまま唯とずっと一緒に…
 だが、やがて唯のペースが落ちていく。だんだんと近づいていく2人の距離が追いかけっこの終わりを示した。
 俺の手が唯の腕を捕らえる。俺は追いかけっこの終わりを残念に思いながらも、心のどこかで安心していた。
「やっぱり捕まっちゃったね」
 唯もまたどこか安心したようだった。俺の手をぎゅっと握ってくる。
「ああ」
 俺も笑顔で唯の手を握り返した。唯も笑顔を返してくる。
 俺たちは追いつくことを前提とした追いかけっこをしている。唯は俺に捕まえて欲しかったんだと思う、今も昔も。そして俺は唯の望みを最初から知っていた。だから、こんなに追いかけることを楽しむことができるんだ。
 捕まえてくれるのを望みながら逃げる唯。捕まえることができるのを知りながら追いかける俺。それは今の俺たちを象徴しているように思える。今唯の手を握っているように、遠くない未来に俺は唯を捕まえるのだろう。
 だけど今はまだこの追いかけっこを楽しんでいたい。ずるいかもしれないけど…



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