気がつくと、唯の姿が消えていた。
俺はピアノの上からノロノロと体を起こす。
「…夢だったのか」
自分でつぶやいて俺は呆然となった。
あれが夢?まさか…そんなバカな…
俺は天国から一気に奈落の底まで落ちた気分になった。
やっと抱きしめた唯がまた遠のいてしまった。夢であったのなら、唯に近づいたわけでもないのだが。
俺は喪失感を抱き、体が重くなったような気がした。
疲れた…すごく疲れた…
「…帰ろう」
俺は想い体を引きずって音楽室を出る。
音楽室のドアを閉めるときに、中を見て唯の姿を探してしまう。いるはずもないのにバカなことだ。
俺は精神的ショックで自嘲気味なっていたのかもしれない。唯を想っている自分がバカバカしく思えてきた。
帰って来ない人を想っていても仕方ないのに…
階段を下り、昇降口で靴を吐き替え、校舎を出る。太陽は沈み、すっかり暗くなっていた。
俺はノロノロと足を引きずるようにして歩いていた。頭が下がってしまうのは沈んでいる気分に影響しているのだろうか。
俺は前も見ず校門を出て、歩道に出た。そしてそのまま道路を横切ろうとして、
キキッー!!
車のタイヤが滑る音に顔を上げると視界いっぱいにライトが飛び込んできた。まぶしさに目を細めると、車が真っ直ぐ自分に向かって突っ込んでくる。
ドンッ!!
鈍い音と共に俺の体が舞い上がった。
ダンッ!!ダンッ!!
1回、2回とバウンドして俺の体が地面に落ちた。
「ゆ、い…」
これで唯の元へ行けるかななんて考えながら俺の意識は薄れていった。
『馬鹿ね。唯はあなたの中にいるのよ。あなたが死んでも唯に会えるわけないじゃない』
俺の馬鹿のような考えに律儀に答えてくれる人がいた。
これは俺の意識の奥底。doorがある場所。
そして今ここにいる人は透子先輩、俺のdoorを開けてくれた人だ。
『もう透子ではないんだけれどね』
透子先輩の苦笑する姿を俺は不思議そうに見ていた。
何でここにいるんですか?もう用事はないでしょう?
『私はね、翔君が気に入ってるの。唯ちゃんも可愛くて好きだわ』
にっこりと透子先輩が微笑む。
俺は透子先輩が何を言いたいのかわからない。
『唯ちゃんもね、翔君のことがすごく好きみたい。あなたの中で、自分の役割と自分の想いの違いに苦しんでいたみたいね』
唯のことを想うと胸がズキズキと痛み出す。もう消えてしまった唯。二度と会えない俺の好きな人。
『何言ってるの?ついさっき唯ちゃんと会ったばかりじゃない』
さっき?でも、あれは夢じゃなかったのか?
『夢じゃないわ。確かにあなたたちは会ったの。そしてお互いの気持ちが通じ合ったのよ』
あれが夢じゃなかった?それじゃあ、俺の告白も、唯の本心も、キスも嘘じゃなかったのか?
『そうよ、嘘じゃない、本当のことよ』
俺の中にみるみるうちに勇気が生まれてきた。それは唯を1人の人間として存在させようとする俺の強い意思だった。
透子先輩、お願いがあるんです!
俺は一歩も引かないといった様子で透子先輩をにらみつける。
『言いたいことはわかってるわ。唯ちゃんを現存させたいんでしょう?』
そうです。お願いします、透子先輩!
『私が何のために翔君と唯ちゃんを会わせたと思うの。あなたたちにチャンスを与えるために決まってるじゃないの』
透子先輩、それじゃあ!
俺の心が期待で膨らむ。唯と一緒に暮らせるようになるという期待が。
『もし翔君が唯ちゃんの気持ちをつかまえられなかった時は、翔君の記憶から唯ちゃんを消そうと思ったわ』
俺は透子先輩の考えに身構えた。唯の記憶を消すなんてとんでもないことだ。
『このまま翔君が唯ちゃんのことを想い続けても幸せになれないと思ったし、唯ちゃんもあなたのことを真剣に想っていたから…』
透子先輩が辛そうに眉を寄せる。
たとえ、幸せになれなくても唯の記憶を消すことは許さないですよ!
語気を荒々しくする俺に透子先輩は微笑む。
『大丈夫。あなたたちは見事のチャンスをつかんだのよ。唯ちゃんを翔君の元へ帰してあげるわ』
透子先輩!ありがとうございます…
俺は透子先輩に頭を下げた。この感謝の思いをどう形にすればいいのかわからないほどだった。
『いいのよ、言ったでしょう?私は翔君も唯ちゃんも大好きなのよ』
透子先輩はお茶目な笑顔を残し消えていった。
そして俺の意識も目覚めようとしていた。