唯がいない生活が続く。唯と笑っていた頃が、ずっと昔のことのように感じられる。
 俺は唯のいない生活になれつつあった。唯の声が、唯の笑顔が、唯のキスが、どんどん遠ざかって記憶がぼやけてきている。
 それでも唯がいなくなったせいでできた、胸の中の穴は今でもポッカリと空いている。それもいつかは塞がっていくのだろうか。
 放課後、音楽室でピアノを弾くことが俺の日課になっていた。
 俺がピアノの天才だとわかると、学校は喜んで俺にピアノを差し出した。いつでも好きなときに使ってくれと言うことだ。俺はそんな学校に嫌気を感じながらも、ピアノを弾いていた。それが唯の遺言だったからだ。
 こうしてピアノを弾いていると、唯が側でピアノを聞いているんじゃないかと感じられる。
「唯にピアノを聴かせてあげれば良かったのにな」
 1度、唯にピアノを弾いてとせがまれたことがあった。その時は、ピアノが怖くて冷たく拒否してしまったけど、今となっては後悔するばかりだ。
 今になって考えると、俺は唯に何もしてあげられなかったことに気づく。俺の都合で唯を振り回していただけだった。
 驚くことに俺は唯に『好き』と言ってないのだ。キスはしたけど、言葉ではっきりと言ったことはなかった。
「好きだって、どうして言わなかったんだろう」
 あれだけ唯を想いながらも唯に気持ちを伝えなかったことが不思議だった。もし、俺が『好きだ』と言っていたら、今が変わっていたのかもしれない。
「…後悔ばかりだ」
 もし、あの時こうしていたら…そればかりが頭の中に浮かんでくる。俺はただ、唯の気持ちの上のあぐらをかいていた馬鹿野郎だったということを痛感するばかりだ。
 ピアノを弾き始めると、熱中してしまう。2年間のブランクが嘘のように指が動く。これが唯と引き換えのものだと思うと切ないけれど、だからこそ大切にしようと思う。なんだかんだ言っても、俺はピアノが好きだ。それは頭よりも指がよく知っていた。自然と指が動き出すのだ。
 何曲か弾き終わると、どっと疲れが出た。昨日、あまり眠れなかったせいだろう。俺はピアノの蓋を閉め、その上に頭を預け目をつぶった。
 すると睡魔がやってきて、俺はあっさり眠ってしまったのだった。

「…ちゃん、翔ちゃん」
 懐かしい声が聞こえ、俺は眼を開けた。
 眠い目をこすりながら懐かしい声が聞こえるほうを見ると、唯が笑顔を浮かべながらピアノの側に立っていた。
「翔ちゃん、本当にピアノが上手なんだね、驚いちゃった!」
 弾んだ声を上げる唯を俺は呆然と見つめた。
「唯…」
 名前を呼ぶと、唯がにっこりと微笑んだ。
 俺は覚めない頭を必死に動かしながら、今の状況を考えていた。
 何故、唯が目の前にいるのか。これは夢か幻か、それとも現実?
「ゆ…い…」
 夢でも幻でも現実でもよかった。今、目の前に唯がいることが俺には嬉しかった。
 目頭が熱くなる。久しぶりに見る唯の姿に俺は感動した。そして、それは唯も同じだった。
「翔ちゃん、会いたかったよ」
 目を潤ませ、唯が俺を見つめる。
 俺は唯に近づき、唯の体を引き寄せた。唯が消えたあの日、触れることのできなかった唯の体を俺は捕まえた。
「唯…」
「翔ちゃん、どうして泣いてるの?」
 からかってくる唯の頬にも涙が流れている。
「唯に会えたからに決まってるだろう!」
 泣いてしまったことの恥ずかしさをごまかすように俺はすねてみせる。
「変なの、毎日会ってるのに」
「えっ」
「私は翔ちゃんの中にいるんだよ、だから別に涙を流さなくてもいいと思うけど?」
 唯が首をかしげる。それが俺の気持ちを試しているのだとわかったので俺は答えずに反対に聞き返してやった。
「お前、俺と別れて悲しくないのかよ?」
「えっ?そ、それは…」
 案の定、唯は聞き返されて困った表情を浮かべている。
「俺は悲しかったんだぜ、唯がいなくなって」
 調子に乗って更にからかうと、急に唯の表情が真剣になった。
「翔ちゃんが私がいなくなって悲しんでたことは知ってた」
 唯が俺の腰に手を回し、ぎゅっと抱きついてくる。
「でもね、悲しむことはないの。だって私はいつも翔ちゃんの中にいるんだもの」
「唯…」
「私と翔ちゃんは一人なの。だからね翔ちゃん、悲しまないで。私はいつだってここにいる、翔ちゃんを見守っているから」
 唯の微笑みは悲しそうに見えた。本心を言ってないように俺には見える。
「やっぱり悲しいよ、唯。俺は唯が隣りにいなくちゃ駄目なんだ」
 俺は唯を優しく抱いてやった。唯が消えた日に何度も言った言葉を繰り返す。
「翔ちゃんの側には翔ちゃんを守ってくれる人がたくさんいるから私がいなくても大丈夫だよ」
 唯が自分の言葉に傷ついたように顔を歪ませた。俺はそんな唯の頭をなでてやる。
「確かに俺を守ってくる人はたくさんいるさ。だけど俺は唯に俺を守って欲しいことを願ってるわけじゃないんだ」
「でも!翔ちゃんは絶対の味方を望んでdoorを開けたんでしょう?だから私がでてきたんだよ。それなのに翔ちゃんの言ってることはおかしいよ!」
 唯は俺の言ってることが間違っていると責める。唯の言っていることは正しい。俺は俺を守ってくれる人が欲しくてdoorを開け、そして唯と出会った。だけど唯と一緒にいる間に俺の想いは変わっていたんだ。
「俺は唯を俺自身だと思ったことはないよ。唯は唯だと思ってる。唯は唯一の存在。俺の…」
 俺は言葉を区切る。今こそ、今まで伝えなかった気持ちを俺のありったけの想いを唯に打ち明けるときだ。
「俺の…好きな人だ」
 唯の目が大きく開かれる。その大きな瞳から涙がボロボロと零れ落ちる。
「…う、嘘だよ」
 俺の告白に唯は弱々しく頭を振る。
「嘘じゃない、俺は唯の事が好きだ」
 きっぱりと言う。俺のこの想いに嘘なんてない。
「だって、私翔ちゃんなのに…」
「俺は唯を俺だと思ったことはないって言っただろ」
「でも翔ちゃんには芹花ちゃんや怜哉君がいるのに」
「芹花や怜哉は友達だ。俺が好きなのは唯だ」
「でも…でも…」
 なかなか信じてくれない唯を俺は強く抱きしめる。これ以上、無理矢理訳を考えても無駄だということをわからせるために。
「俺は今まで唯に甘えてた。唯が優しくしてくれる事をいいことに唯を逃げ口にしてた。だけど俺はもう唯に守ってもらおうなんて思ってない。俺の事は俺自身が決着をつける。…もう、同じ事を繰り返したくないからな」
「…じゃあ、私は何をすればいいの?翔ちゃんを守る以外で私は役立てるの?」
 唯は汚れのない顔で俺に聞いてくる。唯は俺を守るために存在していた。だから、それ以外の生き方を知らないんだ。俺がそうさせた。俺が唯にそんな悲しい生き方をさせたんだ。
「唯には唯の人生を送って欲しい。俺とは別の唯だけが作れる一生を送って欲しい。だけど欲を言えば、俺の隣にいて欲しい。俺と一緒に生きて欲しいんだ。強制は出来ないけど、俺は唯と恋人になりたいと思ってる」
「翔ちゃんは勘違いしてるだけなんだよ!私が1番近くにいたから、私を好きだと思ってるんだ」
 唯が激しく頭を振る。俺の想いを唯は信じられないんだ。俺が今まで唯をひどく扱ったせいだ。
「唯が消えてから俺の1番近くにいたのは唯じゃなかった。それでも俺は唯を忘れることが出来なかった。唯のいなくなった心の穴を埋めてくれる人は現れなかった。この穴を埋められるのは唯しかいないんだ」
「1番近くにいなくても、私が1番好きなの?」
「ああ」
「私は翔ちゃんじゃなくていいの?私は私でいいの?私が私としての感情を持っていいの?」
「持って欲しいんだ!」
 唯は俺にしがみついて泣き声を上げた。俺は唯の体が崩れないようにしっかりと支える。
 唯が産声を上げる。これが唯の誕生だと思った。これから唯の人生が始まるんだ。
「翔ちゃんが好き!翔ちゃんが大好き!翔ちゃんの側にいたい、翔ちゃんを独り占めしたい!翔ちゃんに誰よりも私を好きでいて欲しいの、誰にも翔ちゃんを渡したくない!」
 唯が次々と自分の想いを叫ぶ。今まで抑制されていた感情が一気に吹き出したのだろう。
 そして俺はそんな唯を愛しく思い、唯が俺と同じ想いを抱いていたのだという幸せを噛み締めていた。
「俺も唯が好きだ。唯を誰にも渡したくない!」
「翔ちゃん…」
 唯がやっと本当の笑顔を見せてくれた。俺が好きな唯の笑顔だ。
「唯!」
 俺は唯を強く抱きしめ、強くキスをした。唯も強く俺に答える。
 雨の日のキスよりもずっと熱かった。2人の気持ちがやっと重なった証拠だった。
 胸の中の穴が暖かいもので満たされていく。それは唯の俺を好きだという想いだった。
 そして俺たちはまどろみのような甘いキスをして、俺はスゥーと意識が遠のいていく感覚を感じた。



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