唯は消えてしまった。もう唯はこの世のどこにもいない。会えることは一生なくなってしまった。
 唯が消えても俺は生きていた、透子先輩の言う通り、俺は唯がいなくても生きていくことができた。
 ピアノを弾き、友人と語り合う、普通の生活。唯と出会う前の生活に俺は戻った。
 それでも唯の面影を求めてしまう。唯を欲しがる自分が常に心の中にあった。それは日に日に強くなり、俺を無気力にさせた。
 今の俺は昔、あんなに嫌がっていた操り人形になっていた。自分の意思に関係なく、生きているだけ。ただ昔と違うのは俺を操るものがピアノではなく、唯に変わっただけだった。
 しかし俺を操る唯はもういない。俺は生きることに疲れていた。唯のいない世界で生きている意味はあるのだろうか。その問いかけに答えるように俺の中の暗い部分が囁いた。
『もう終わりにしてしまえばいい』
 その囁きは甘美で、俺は抗うこともできなかった。
 そして俺は全てを終わりにするために、音楽室にやってきた。唯の消えた音楽室に。
 俺はゆっくりと自分の手首にカッターを押し付けた。
「翔!」
 しかし、その手を締め上げられ、俺の企ては失敗に終わった。痛さのあまりカッターを地面に落とす。
「何しているんだよ、翔!」
 俺はすざましい形相でにらむ怜哉の顔を見上げた。
「別に…」
「別にってお前自殺しようとしてたじゃねえか!?」
 俺の冷めた口ぶりに怜哉は怒りを抑えきれずに怒鳴り声を上げた。
「わかってるなら邪魔するなよ」
 俺の言葉を聞いて、怜哉が力任せに俺をぶん殴った。ガタンッと俺の体が地面に放り出される。
「邪魔されたくないなら、音楽室でこんなことするなよな!」
 俺は音楽室に敷いてあるカーペットの横たわりながら、怜哉の言葉を頭の隅で聞いた。
 音楽室で死ぬことに意義があるんだ。俺は唯が消えたこの場所で唯の後を追いたかった。
「唯が消えたなら、俺も消えるべきだ」
 ぼんやりとつぶやいた俺を怜哉がもう一度殴る。
「ふざんけんなよっ!唯ちゃんは、唯ちゃんはお前を生かすために消えたんだ!お前に生きてもらいたかったんだ!」
 唯の気持ちが怜哉の言うとおりだなんてことぐらい俺には痛いぐらいわかっている。
 唯は俺と一緒に生きていたかったんだと思う。だけど唯は自分がいたら、俺がピアノを弾かないことをわかっていたんだろう。俺は唯に逃げていたんだ。全ての苦しみから唯に逃げていた。
 だけど俺には唯以外の味方ができた。俺を守ってくれる仲間ができた。だから唯は消えた。自分がいると俺が逃げ続けるとわかっていたから、そして俺にピアノの苦しみを和らげてくれる仲間ができたから、唯は自分が消えることを選んだんだ。俺に逃げていないで苦しみに立ち向かって欲しいから。
「唯は芹花に似てた…俺が唯を芹花にしたんだな」
 俺は音楽室の天上を見ながら、涙を流した。
 芹花に似ていた唯。それは俺がそう願ったから。引っ越して俺の前からいなくなってしまった唯一の理解者、初恋の人、芹花を取り戻したかった。だから俺は願ったんだ。唯を芹花にしてくれって。
「唯ちゃんは芹花じゃなかった。唯ちゃんは唯ちゃんだ」
 怜哉の言葉が慰めであっても、俺は怜哉にそう言われて救われたような気がする。
 唯が言っていた俺の味方は芹花であり怜哉だ。特に怜哉は唯のことを覚えている唯一の存在だった。
「唯ちゃんは翔が好きだった。翔も唯ちゃんのこと本当に好きだったって俺は知ってるよ。翔は唯ちゃんに芹花の役割を求めていたことはわかってたけど、でも唯ちゃんと芹花が重なって見えたことなんてなかったぜ。唯ちゃんはさ、霧島唯っていう一個人だったんだよ」
 怜哉は俺を肯定してくれる。俺の唯への仕打ちがひどいことじゃなかったって言ってくれる。
 唯に出会う前の俺なら、きっと怜哉に甘えてた。芹花が俺にしてくれたことを今度は怜哉にさせてた。
 でも今は駄目だ。唯のいなくなった穴は誰にも埋めることなんてできはしない。
「翔が俺の言葉なんかに動じないことなんてわかってる。翔を動かすことができるのは唯ちゃんしかいないってことわかってるさ。でも、でも!」
 怜哉が俺の襟首を掴む。切羽詰った表情を浮かべ怜哉は俺に顔を近づけ、叫ぶ。
「頼むから生きてくれよ、翔!俺はお前を失いたくない。俺だけじゃい、芹花だって、みんなお前を失いたくないんだよ。辛いことはわかる。苦しいことはわかるけど、お前に生きてて欲しいんだよ!!」
 怜哉は傷ついたように顔を大きく歪ませる。泣く一歩手前ぎりぎりでこらえているような表情だった。
「頼むよ…」
 怜哉はそれ以上声にできない様子で、掴んだ俺の襟首に顔をうずめた。
 俺はそんな怜哉を見て自分が死ぬことができないことを悟った。俺は怜哉を芹花を置いていくことができない。こいつらは味方であり、仲間だ。裏切ることなんかできない。
 しかし、それは俺の苦痛が長引くことを示していた。俺は自然に死ぬまで唯のことを想い、苦しんでいくのだ。それは死ぬことよりもずっと辛いことだった。
 俺の目から一筋の涙が流れ落ちた。それが何に対しての涙なのか俺にはわからなかった。



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