音楽室に近づくとピアノの音が聞こえてきた。
 恐怖に身を強張らせながら、俺はそれでも音楽室のドアを開けた。
 開けるとピアノの音は止まり、ピアノを弾いていた人が椅子からゆっくりと立ち上がった。
 視線があう。その人は穏やかに微笑んだ。
「唯…」
 俺は呆然と唯を見た。唯が音楽室にいるのに驚いたのではない、唯がピアノを弾いていたことに驚いたのだ。
 唯がピアノを弾けたとして不自然ではない。だが、俺にはそれがあってはいけないことのように感じられたのだ。
「ピアノ、懐かしいね」
 唯が鍵盤を叩くと、ポーンと懐かしい音が響く。それは俺が2年前に捨てたものだった。
「やめろ」
 唯は俺の声を聞かず、鍵盤を叩き続ける。足の底からじわじわと恐怖を感じ俺は叫んだ。
「やめろ!」
 強い俺の叫びに唯は手を止めた。しかし怯えることなく、静かな目で俺を見つめている。
「ピアノが怖いの?」
 唯の問いかけに閉めていたはずの心のdoorが開きだす。
 ピアノなんて怖くない。本当に怖いのはピアノではなく、もっと他のものだ。
「変わっていくことが怖いの?」
 本当に怖いのは、俺がピアノの天才ということでみんなが変わっていくことだ。
「ピアノが全てを変えたんじゃないよ、みんなが変わっていっただけだよ」
 そうだ。悪いのはピアノじゃない。変わっていったみんなが悪いんだ。親も友達も俺がピアノの天才だと知ると変わっていった。天才でも俺は何も変わらないのに。
「ピアノは翔ちゃんの味方だよ」
 知ってるさ。ピアノはいつだって俺を助けてくれた。ピアノも俺もお互いが好きだったんだよ。
「ピアノを裏切ったのは翔ちゃんだよ」
 俺が悪かったんだ。ピアノの先生やプロのピアニストの言う通りにピアノを弾いて、本当の自分の弾き方を見失ってしまった。自由じゃなくなった俺が、技術に縛られてしまった俺が間違っていたんだ。
「でも苦しかったんだ。思い通りに弾けない自分が、まるで操り人形になってしまったようで怖かったんだ」
 俺は言い訳を吐いた。誰に対して言っているのだろう。自分に?それともピアノに?
「俺は自由になりたかったんだよ。天才にこだわる親から、友人から、世間から、何もかもから!」
 頭を抱え、その場にうずくまる。敵から身を守るように。
「だから閉じ込めたんだ。ピアノを弾ける術をdoorに!」
 doorに!…doorに?door…doorって何だよ。
 自分の口から出た知りもしない言葉に俺は動きを止めた。
 door…聞いたことある…?
『あなたのdoorを開けてあげる』
 それは突如俺の頭の中に響いた。
 そう、それは女性の声だった。俺の意識の奥底にいた女性。俺のdoorを開けてくれた女性。
 doorを開けた?違う、閉めたはずだ…違う、ピアノのdoorを閉めて、違うdoorを開けたんだ。何を、何のdoorを…?
「翔ちゃん」
 唯の声にびくりと俺の体が震える。
 俺が開けたdoor…それは…
「ゆ・い…?」
 目を大きく開け、唯を見る。唯は真実を知った俺に悲しそうに微笑んだ。俺は自分の考えを肯定されて激しく頭を振った。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」
 認めたくない。唯が、唯がdoorの奥にいたもの、俺の願望だなんて!認めてはいけない、認められるものか!
「本当のことだよ。私は翔ちゃんなんだよ」
 真実を話す唯の言葉を俺は拒絶するように頭を振り続けた。
「翔ちゃんは自分の絶対の味方が欲しかった。自分を裏切らない、自分を1番好きでいてくれる人の存在を願ったんだよ。doorはその願いを叶える為に開いた。そして、それは…」
「やめてくれー!!」
「…私だったんだよ」
 唯の声は無常にも俺の耳に届いた。
 聞きたくなかった。それが真実だとわかっていても聞きたくなかった、認めたくなかった。
 しかし、それは認められてしまった。俺の心の底では唯が俺だということを知っていたんだ。ただ知らないふりをしていただけなんだ。知らないふりを続けていたかった。だってそれを知るってことは唯を失うってことだったから。
「でもね、それは間違いなんだよ。翔ちゃんは自分に味方がいないと思ってるけど、それは間違いなの。翔ちゃんの周りにはたくさんの味方がいるんだよ」
 唯が微笑む。嬉しそうに、寂しそうに。
「芹花ちゃんに怜哉君、2人とも翔ちゃんのことが大好きなんだよ。それにね、ピアノも翔ちゃんのことずっとずっと見つめていたんだよ」
 唯が愛しそうにピアノをなでる。
「それでも俺の1番は唯だ。俺の隣りに唯がいて欲しいんだ」
 俺は涙を流し叫んだ。俺の心の奥のdoorが閉じようとしている。唯がいなくなろうとしている。
「俺には唯が必要なんだよ、唯にいてもらわなきゃいけないんだ!」
 唯を引き止めたい一心で必死に言葉をつづる。しかし唯はその想いを受け止めてはくれなかった。
「翔ちゃんは独りじゃない、たくさんの仲間がいるもの。私は、唯はもういらないんだよ」
 唯が聞き分けのない子供に教えるように話す。
「違う、違う」
 俺はもう何を言えばいいのかわからなくても、ただうわ言のようにつぶやいた。
「翔ちゃん、周りをよく見てね。翔ちゃんをずっと見守ってくれた人、ずっと想っていてくれた人の存在に気づいてあげてね」
 唯は切なそうに瞼を閉じた。俺は別れが近くまできていることに気づき、唯に近づこうとした。
 しかし唯は俺から離れるように後ずさる。
「唯!」
 触れることも許さない唯を責めるようににらむ。唯は俺の目に傷ついたように顔を歪めた。
「ごめんね、翔ちゃん。でも、もう触れないで」
 唯はぎゅっと自分の手を握り締める。俺は唯のはっきりとした拒絶にそれ以上近づくことができなかった。
「…透子先輩、お願いします」
 唯が透子先輩を呼ぶ。すると透子先輩が音楽室に入ってきた。まるで計ったような2人の行動に俺は目を丸くした。
「もう、いいのね」
 透子先輩の声に唯は深く頷いた。
「そう、おやすみなさい」
 優しく声をかけ、透子先輩は唯に手をかざす。
 唯の体が揺らぐ。そしてゆっくり、ゆっくりと唯の体が薄くなっていく。唯が消えるのだとわかった。唯は消えてしまうのだと。
 唯が消えるのは嫌だ。止めたい、唯を引き止めたい。でも、もう無理なんだ。引き止める術など何1つない。俺の言葉も気持ちも唯には届かないんだ…
 俺は涙でぼやける視界で唯を見つめ続けた。
「翔ちゃん、ピアノ弾いてね。いっぱい、いっぱい弾いてね」
 唯は笑顔だった。俺がこんなに悲しんでいるのに唯は満面の笑みを浮かべていた。
 唯の姿がはっきりと見えなくなる。もう体の向こうが透けて見えている。
「…、い…」
 唯の名を俺はうまく言葉にできなかった。口の中で言葉が消えていく。これが唯に伝える最期の言葉になるのに。
「翔ちゃん…」
 唯の顔がこらえきれなくなったように、途端に歪んだ。
「翔ちゃんに、玉子焼き作ってあげたかったよ!」
 それは唯が消える最期の最期に発した言葉だった。それは唯の本心だった。唯が抱いていた、隠していた心からの言葉だった。
「唯!」
 駆けつけるが、すでに唯は消え、欠片さえも残っていなかった。
「唯…」
 俺はその場に崩れ落ちた。唯がいた場所で俺は泣き声を上げた。恥も捨て、ただ声を出して泣いた。
「翔君」
 透子先輩がそっと俺の肩に触れる。
「唯ちゃんのdoorは閉ざされた。それはね、唯ちゃんの役目が終わったことを意味しているの。あなたは、もう唯ちゃんがいなくても生きていけるはずよ」
 透子先輩、doorを開け、そして閉めた女性に俺は頭を振った。
「そんなの無理だ。唯なしで生きていけるはずがない」
「生きていけるわ。だからdoorは閉まったんだもの。あなたも彼もdoorを必要とすることはもうないのよ」
「嘘だ…」
 俺のつぶやきに透子先輩は優しく微笑んだ。
「もし、それでもあなたが唯を求めるのなら、それは…」
 透子先輩の言葉を最後まで聞くことなく、俺は意識を手放した。深い、深い闇へ。目覚めてもはれることのない闇へ。



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