door-serika3





「彼が浮気しているみたいなの」
 珍しく芹花のミスが目立ったバイトの帰り、何かあったのかと尋ねると芹花はあっさりとそう答えた。
「…えっ?」
 一瞬、頭の中が真っ白になって俺の動きがピタリと止まる。
 その間にも芹花は何もなかったように俺を置いて1人先を歩いていく。
「…浮気って、彼氏が?」
 芹花のあっさりとした言い方から聞き間違えかと思って芹花の背中に問いかけると、
「そうよ」
 芹花が足を止め、振り向いて頷く。何でもないようなあっさりとした動作だ。
「そうよって…」
 俺は芹花のそんな様子が理解出来なくて頭を抱える。恋人が浮気したっていったら、もっと騒ぐものじゃないのか。悲しむとか、怒るとか、そういう反応が芹花には見当たらない。
 それでもバイトのミスは恋人の浮気が原因らしいから、一応ショックは受けているらしいけど…
 いや、外見からわからないだけで本当は傷ついているのかもしれない。芹花のことだから弱いところを他人に見せたくないだけなのだろうか。
 頭を振りながら考え込んでいる俺を見て芹花は困ったように首を傾けた。
「そんなに考え込まないでよ、翔」
「普通は考えるだろ?芹花は何でそんな平気そうなんだよ?俺には本当の気持ちを見せられないのか?」
「そういうわけじゃないわ。私だってこれでも戸惑ってるんだから」
 芹花は視線を落とし、自分の体を抱きしめる。その手が微妙に震えていることに俺は気づいた。
 芹花はショックを受けていないわけではなかった。だが、それを外に出さず、内で震えていたのだ。
「ごめん」
 そんな芹花に気づいてやることが出来ず、芹花を責めてしまったことを俺は謝った。
「謝らないでよ」
 芹花はそんな俺を見て困ったように微笑む。手の震えはすっかり収まっている。こうして見るといつもの芹花に見えて、傷ついているようにはとても見えない。だけど心なしか笑顔に元気がないようにも見える。
「彼氏に聞いたのか?」
 自分がどこまでこの話に突っ込んでいいのかわからないが俺は芹花のことが心配で口を出してしまう。
「聞いてないわ…」
 そっけなく答え、再び芹花は歩き出した。俺は芹花を追いかけ、助言じみた言葉を口にする。
「聞いたほうがいい。嘘かもしれないだろ?」
「そうね」
 しかし芹花は隣に並ぶ俺の顔を見もせず、気のない返事を返すだけだった。
 俺はそんな芹花のそっけなさに自分はいらないおせっかいをしているのではないかと思った。
 芹花は俺の助言なんて聞きたくないのかもしれない。そう思うと何も言えなくなってしまった。
 それっきり俺も芹花も黙ったまま歩いた。バイトの帰りでこんな静かな日なんて他になかった。いつもは楽しくしゃべりながら帰るのに、今は気まずい重い雰囲気が流れている。
 芹花は居心地を悪くしている俺を気に止めることもなく、前を見ていつもと同じ速度で歩いている。せめて早足だったら、こんなに居心地が悪くないと思うのに。俺だけが今の空気を気にしてバカみたいだった。
 黙々と歩くとやがて芹花の家が見えてくる。俺はバイトの帰り、毎日芹花を家まで送っていた。バイトが終わるのは夜遅くなってからなので女の子1人で帰るのは危ないと思い自らが芹花を送ると名乗り出たのだ。芹花は断ったのだが俺がしつこく送ると言い張り、俺が勝手に芹花の家までついていく状態になっている。
「送ってくれてありがとう」
 芹花はいつものように俺に送ってもらった礼を言う。自分が好きで送っているのだし礼なんていいと言ったのだが、芹花は礼を言うのは当たり前だと言ってやめない。毎日毎日、きちんと礼を言うところが芹花らしくて俺は好きだった。
 俺は芹花の礼の言葉に無視されなくて良かったとほっとして駅へ向かおうとしたが、
「待って、翔」
 芹花に呼び止められ俺は足を止めた。
「さっきは邪険に扱ってごめんなさい…でもこうなることは何となくわかってたの。だから戸惑いはしたけど、やっぱりって気持ちが強くて沈んでたところに何もわかってない翔が余計な事言うから機嫌悪くしちゃって…大人気なかったわ。ごめんなさい」
 謝っているんだか、ケンカ売っているんだかわからないが、シュンとしているから一応謝っているんだろう。
 でも何か納得いかない。俺は部外者だから、俺の助言なんて余計のことかもしれないけど、俺は一般論を正しく言っただけだ。そんなに機嫌を悪くするようなこと言ってないと思うけど…
「それじゃあ、おやすみなさい」
 言うだけ言ってスッキリした表情で家に入っていこうとする芹花の腕を掴む。
「こうなることがわかってたってどういうことだよ?」
 芹花の言葉の中で引っかかる単語。何か深い意味が隠れているような匂いがプンプン漂ってくる。
「…そのままに意味よ」
 芹花は俺の手を振り払い、冷たい言葉を投げかけた。俺は芹花の好戦的な態度を怪しげに思った。その単語が芹花の本心だってことがピンときたんだ。
 わかってるって芹花は何をわかっているんだ。恋人が浮気をするってことを初めからわかっていたのか?
「彼氏に芹花の他に気になる相手でもいたのか?」
 芹花は黙ったまま肯定も否定もしないので俺の考えはどんどん嫌なほうへ傾いていく。
「もしかして女なら誰でもいい最低な野郎なのか?」
 そんな奴に芹花を渡せないと思った。大切な芹花がいい加減な奴とつきあって泣くはめになるなんて絶対阻止しなきゃならん!
「そんな奴やめちまえよ!芹花にはもっと良い男がいるぜ」
 俺は胸の辺りがムカムカとしてきて感情的に叫んでいた。芹花はそんな俺をポカンと口を開けて見ている。
「ちょっと翔落ち着いてよ。彼はそんな人じゃないわ、とても良い人なんだから」
「じゃあ何でこうなることがわかってたんだよ!」
「それは…」
 芹花は俺から目をそらし、唇を噛む。
「それは…?」
 答えてくれるまでここから一歩も動かないという意思を込め、じっと芹花を見つめる。
「…それは、私が引っ越したからよ」
 すると芹花は諦めたように口を開いた。
「…引っ越したから…?」
「距離には勝てないってこと!」
 首をひねる俺に芹花はやけくそになったように声を張り上げる。
「離れたら終わりなのよ、人の気持ちはすれ違ってしまうの。私は彼から離れた。だからこうなると思ってた」
 芹花の考えが俺には信じられなかったが、芹花の表情は真剣そのものだった。どうしてここまで後ろ向きになってしまえるのか謎だった。
「そんな理由で恋人のこと疑ってるのか?」
「そんなこと?私は真剣だわ、真剣にそう思ってる!」
 呆れ顔の俺に芹花は声を荒げる。それでも理解できないでいる俺に芹花はギロリと恨みのこもった視線を向ける。
「翔には一生わからないわよっ!」
 芹花は俺の頬をベチッとひっぱたき、家に駆け込む。バタンッと勢いのついた音を立てて扉が閉まる。
 俺は呆然としながら芹花を見送る。ここまで芹花の感情が高ぶったのを見たのは初めてかもしれない。
「わかんねえ…」
 芹花に頬をひっぱたかれた痛みで涙ぐみながら、俺は盛大な溜息をついた。どんなに考えても芹花の考えを理解することなんてできないと思った。



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