door-serika11





「唯ちゃんから翔を奪っていいのかしら?」
 放課後の教室から芹花の声が聞こえ、俺は立ち止まった。
 明日、宿題の提出がある数学のノートを教室に取りに来たが、芹花が誰かに相談を持ちかけているようで俺は息をとめてその様子を盗み見た。芹花に向かい合うようにして座っているのは怜哉だった。
「私は唯ちゃんほど翔を必要としていないかもしれない」
 それは昨日のことだった。唯がすがるようにして俺に泣き叫んだのは、
『翔ちゃんから離れたくない!』
 唯の悲鳴が耳にこびりついて離れない。それはきっと芹花も同じことなのだろう。
「私は唯ちゃんに負けてるのかもしれない…」
「バカだな、芹花は」
 芹花の真剣な言葉を怜哉は笑い飛ばした。芹花がそんな怜哉に文句を言うより早く怜哉が口を開いた。
「気持ちなんて計れるわけないだろ。誰がそれだけその人を好きかなんて誰にもわからない。ましてそれを比べることなんてバカなことだよ」
 軽い調子で言い捨てる怜哉に芹花が少しだけ表情を柔らかくした。怜哉が芹花の表情を見て安心させるように微笑む。
「それにな、芹花。恋愛って気持ちが強い奴が勝つってものじゃないんだよ。強くても弱くても気持ちが通じ合った奴の方が勝ちなわけさ」
「それって理不尽だわ」
「しょうがないだろ、恋愛ってそんなもんなんだから」
 怜哉の気楽な物言いは芹花の心を救ってくれたようだった。芹花の表情がずいぶんと明るくなっている。
「ありがとう、怜哉。私、自分の気持ちを貫き通すことにするわ。誰がどのくらい翔を好きでも翔の気持ちが私にある限り、私の勝ちってことよね」
「まっ、頑張れよな」
 怜哉は適当に応援して芹花を見送った。
「翔!」
 芹花はドアにへばりつくようにして教室内を見ている俺に驚いた声をあげる。
「いや、これは…」
 言い訳を考えるが、芹花には俺が何をしていたのかピーンときたみたいだった。
「翔、私これから久子のところに行ってちゃんと訳を聞いてくるわ」
 サバサバとした芹花の表情に芹花が全てを吹っ切ったことがわかった。
「恋人ともきちんと別れてくるわ。だから!」
 グィッと俺の胸倉を掴んで芹花は引き寄せると、
「翔も唯ちゃんのことはっきりしてよね」
 俺の眼前でにっこりと微笑む。
「俺はとっくにはっきりしてるよ」
 俺の答えに芹花は満足したのか俺の胸倉から手をはずし、廊下を走って行く。俺は頼もしげにその後姿を見送る。
「仲が良くて結構、結構」
 教室には俺と芹花を見てニヤニヤと含み笑いをしている怜哉がいた。
「ありがとうな、怜哉」
 俺が感謝の言葉を口にすると怜哉が目を丸くした。
「怜哉がああ言わなかったら芹花と駄目になってたかもしれないからさ」
「大丈夫だよ。お前らは年期が入ってるから。俺はいつかお前らがくっつくと思ってたよ」
 怜哉の意外な言葉に今度は俺が目を丸くした。
「良かったな、翔」
「怜哉のおかげだよ」
 俺が改めて礼を言うと怜哉は泣き笑いの表情を浮かべた。
「…俺もやっとお前の役に立ったかな」
 ポツリとつぶやき怜哉は嬉しそうに、だけど悲しそうに笑った。
「ところでお前何しに教室に戻ってきたんだよ?」
 だけどそれは一瞬で俺には確かめる術もなかった。
「ああ、数学のノートを忘れて…」
 戸惑いながら答えると怜哉が俺の机の中から数学のノートを取り出した。
「ほれ、頑張って宿題終わらせろよ」
 俺は数学のノートをうんざりとした表情で受け取る。実は提出が明日にもかかわらず一問も手を付けてないのだ。
「じゃあ、俺は帰るけど」
 一刻も早く宿題に取りかからなければ明日までに終わらない可能性があるので、俺は早々と帰ろうとした。
「俺はもう少しここにいるよ」
「ああ…」
 何か教室にいなければならない用があるのかと聞きたかったが、それを許さない雰囲気が怜哉にあった。
「ああ、また明日」
 別れの挨拶をして俺は教室を出た。
 真っ直ぐ昇降口に向かうと、そこには唯がいた。
「翔ちゃん」
 下駄箱で靴に履き変えていた唯が俺に気づき手を止める。
「唯…こんな遅くにどうしたんだよ?」
「部活に行ってたんだ」
「部活…?」
 俺は昨日のことを思い出した。唯が俺に泣きすがった様子を…
「もう落ち着いたよ」
 俺の心の中がわかったのか唯が穏やかに微笑む。
「昨日はごめんね…」
 唯に謝られても俺は何も言い返してあげることが出来なかった。唯は悪くない、俺も芹花も悪くない。
「…一緒に帰ろう、翔ちゃん」
 俺が頷くと唯がゆっくりと歩き出す。駅までの短い距離をこうして唯と歩くのは久しぶりだった。入学前に唯と毎日登下校する約束をしていたが、それを果たせたのは始めの一週間だけだった。俺が窓ガラスを割って芹花とバイトするようになってから、学校から真っ直ぐバイトに向かっていたので一緒に帰ることはなかった。
 唯と一緒に帰るのは、これが最後になるような予感がした。俺は一歩一歩を踏みしめるようにゆっくりとゆっくりと歩いた。
「私、翔ちゃんのことが大好きだよ。芹花ちゃんも怜哉君のことも大好き…」
「俺も唯が好きだよ。芹花も怜哉も…」
 真っ直ぐに伸びている俺たちの影を見つめながら、俺は唯との別れを感じていた。
「私たちの側にはたくさんの人がいるんだね…私たちはもう独りじゃないんだね、翔ちゃん!」
 俺の大好きな唯の笑顔が顔面に広がる。これが最後の笑顔…
「唯も一緒だよ。俺たちはずっと一緒だ…」
 微笑に少しの悲しさが混ざるのは、やっぱり別れが辛いから。もう唯に会えないから。
「翔ちゃん、大好き!」
 笑いながら唯が駆けて来る。俺に抱きつき、そして唯は俺の中へと消えた…
 目の前には夕焼けが広がっている。他には何もない、唯はいない。影も1つ。俺の影だけが遠くに遠くに伸びていた。
「翔君」
 近づいてくる影が1つ。その影は唯を作り、消した人の影だった。
「doorは閉ざされたのですね」
 影が透子先輩が俺の隣に並ぶ。
「閉ざされたのではないわ。閉じたのよ、役目が終わったから」
 透子先輩の優しい声に俺は泣き出してしまった。
 唯は自分の役目を果たした。だから俺の中に戻ってきたんだ。
 唯は独りぼっちの俺が作った味方だった。芹花が引っ越してから独りになってしまった俺が生み出した俺自身。そして俺はもう独りぼっちではなくなった。芹花が怜哉が俺の側にいてくれるから、だから唯はもういらないんだ。
「透子先輩、ありがとうございました…」
 透子先輩は俺の心の中のdoorを開けてくれた人。俺の寂しい心の叫びを見つけて、唯を作ってくれた。
「どういたしまして」
 透子先輩は微笑むと来た道を戻って行った。透子先輩とももう会うことはないだろう。
「さようなら…」
 俺は夕日に別れを告げた。唯に透子先輩に、そして独りぼっちだった自分自身に…



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