door-serika12





 唯と透子先輩は元からいなかったかのようにみんなの記憶から消えていた。
「久子ったら私の顔を見て泣き出すんだもの、失礼しちゃうわ」
 隣りでは芹花が元恋人と久子に会った経緯を事細かに俺に話している。
「仲直りは出来たんだな」
「もちろん、私に新しい恋人ができたって教えたら2人ともびっくりしてたわ」
 意地悪そうに笑う芹花を見て元恋人と久子を気の毒に思ったが、うまく収まったのだから大したことではないだろう。
「ところでどこに行くの?」
 俺たちは放課後の廊下を歩いている。俺がある場所に芹花をつき合わせているのだが、そのある場所がどこなのかはまだ教えていないのだ。
「まだ秘密」
「何よ、それ」
 別に秘密にする理由もないのだが、こういうと芹花がすねるような仕草をするからついついからかいたくなるのだ。
「もう」
 芹花は俺が口を割らないので諦めておとなしく俺の後をついてくる。
「ここだよ」
「ここって…」
 立ち止まった教室を見て芹花が口をポカンと開ける。
「ここって音楽室じゃない」
 俺はポケットから鍵を取り出し、音楽室の鍵を開けて中に入った。
「ちょっと、何で翔が鍵を持ってるのよ」
「先生に話したら、喜んで鍵を渡してくれたよ」
 先生は俺の正体を知ると感激して俺に鍵を渡してくれた。どうやら俺のファンだったらしい。「頑張ってくれよ」なんて手まで握られてしまった。
「でも翔はピアノが弾けないんじゃなかったの?」
 芹花が首をひねりながら言う。入学式の時に交通事故のせいでピアノが弾けなくなったと芹花に話した記憶がある。おそらく芹花はそれを思い出したのだろう。
「今まではね、でも今なら弾けそうな気がするんだ」
 俺がピアノを弾けなかったのは精神的なものだった。ピアノは俺にとってマイナスイメージしかなかった、俺を傷つけるものだって。
 だけど唯が生まれたdoorが閉じて、開いた他のdoorに俺のピアノに対する思いは詰め込まれていた。初めて鍵盤を叩いたときの楽しさ、初めて曲を奏でることが出来た喜び。俺はピアノが好きだった思いを交通事故の日、doorの中に閉じ込めてしまっていたんだ。
 だから今ならきっと弾ける。
 俺はピアノの前に立ち、ゆっくりと蓋をあげる。そこには白と黒の鍵盤が輝いて俺を待っていた。
 長く待たせてしまった。doorを閉めたあの日から、ずっとピアノを待たせてしまった。
 ピアノがせがむように輝きを放ったので俺はすぐさま曲を奏で始めた。俺はピアノを忘れていなかった。長年のブランクが嘘のように指が動く。俺は立て続けに3曲を弾き、やっと指を止めた。
 体がかすかに震えている。俺はピアノを弾くことに喜びを感じていた。やっと自分が自分に戻ってきたよう気がした。
「翔…」
 俺の背中にそっと芹花の手が触れる
「芹花、ごめん」
 俺は芹花のことをすっかり忘れていた。慌てて謝ると芹花は嬉しそうな表情を浮かべて首を振る。
「いいのよ。だって翔すごく幸せそうなんだもの」
「俺、今まで忘れてたよ。俺ってすごくピアノが好きだったんだ」
 俺は酔ったようにピアノを見つめた。そして芹花に感謝した。俺がピアノを取り戻すことが出来たのも、全て芹花のおかげだった。
「そんなの知ってたわよ」
 芹花の笑いに、ふと唯の笑いが重なる。唯も俺の中で笑っていた。そんなの知ってたよって、笑ってる。
 唯にも聞こえているんだ。ピアノの音が、俺が奏でるメロディーが。
 夕焼けが2人を照らしていた。あの日の夕焼けで唯は消えてしまった。唯の存在も記憶もみんな覚えていない。それでも俺は覚えている。そして唯が俺の中にいることを感じることが出来る。
「芹花、好きだよ…」
 俺は芹花を大事にしていこうと思う。唯を捨ててまで俺は芹花を選び取ったのだから。
 芹花は唐突な俺の告白に顔を赤らめる。俺はそんな芹花が愛しく思えて、そっと芹花にキスをした。
 夕焼けが祝福するように重なり合った2人の手を赤く染めていった…



(終)

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