「空を飛んでみたいな」
 空に手をかざし、彼方(かなた)が呟く。
 守(まもる)は彼方に構わず、参考書の問題を懸命に解いている。
 今は昼休み。彼方と守の2人は、昼食を食べ終え、屋上に来ていた。
「空を飛べたらいいよなあ」
 うっとりとした目で彼方は空を見る。それは、まるで恋焦がれているようだった。
 その様子に守は目もくれない。別に彼方の異常な態度は、今始まったわけじゃないのだ。
 知り合った頃から彼方はこんな調子だった。いつも空を見て「飛べたらいいな」と夢見るように呟く、変な奴だった。
 それをまだ、冗談半分で言うならましだが、本気で言われてはかなわない。守は彼方に近づかないほうがいいと思いながらも、何故か彼方に気に入られ、いつも一緒に行動するようになっていた。
 静かになった彼方を守は、参考書の端から盗み見る。
 彼方は屋上に寝転がったまま、目を閉じていた。
 目を閉じるとまわりの邪魔なものがすべて消え、自分の体が空に飛んでいるように思えるのだと彼方は言う。
 幸せそうな彼方の顔を守はほかに見たことがない。遊ぶ時や食事の時、寝ている時でさえ、彼方は味気ない顔をしている。空と同調している彼方が1番幸せそうだ。
「彼方」
 不安になって彼方を呼ぶと、彼方はゆっくりと目を開ける。
「何?」
 寝転がったまま彼方は守に顔を向ける。夢から覚めたようなぼんやりとした視線が自分に向けられて守はほっとした。
「問題がわからないから教えろ」
 つい命令口調になってしまう。
 彼方はのろのろと立ち上がり、守の隣りに座り込む。
「どれ?」
 守が問題をさすと、彼方はすらすらと答える。あまりの速さに守は呆気に取られたが、すぐに彼方が学年1番の成績だと言うことを思い出す。
「彼方は本当に頭がいいな。うらやましいよ」
 守が溜め息をつくと、彼方はきょとんとした顔で守を見る。
「何で?」
「何でって、おまえすっごく頭のいい有名私立高校受かっただろ?俺なんて1番頭の悪い高校に受かるために必死に勉強してるのにさ」
 うんざりとした顔で守は参考書を放り投げる。
「頭なんかよくても何にもならないよ。別にいい高校に行ったって意味なんてない」
 彼方の言葉に少しむっとした。懸命に勉強している自分を馬鹿にされているような感じがしたからだ。彼方は初めから頭がいいからそんなこと言えるのだ。
「おまえ、今は不況なんだぞ。いい高校行って、いい大学に行かなければ、いいところに就職できないんだぞ!」
「それがどうかしたの?」
 彼方は守の言い分をサラリとかわす。
「いいところに就職できたって、人生つまらない。仕事だけの生活なんて俺は嫌だね」
 彼方は守の言葉に呆然とした。彼方はどうしてこんなに現実に対して、冷めてしまっているのだろうか。
「彼方は夢とかないのか?」
「夢?空を飛びたいことだな」
「違う!そういう夢じゃなく、将来やりたいことはないのかって聞いてるんだよ」
「空を飛ぶことじゃ駄目なわけ?」
「駄目だ」
 守がキッパリと言うと彼方はしばらく考えた後、口を開いた。
「やっぱり空を飛びたい!」
 彼方の答えに守はがっくりと肩を落とす。
「そんなに飛びたいのなら、ここから飛び降りれば」
 やけになった守に彼方は真剣な表情を見せる。一瞬、彼方が怒ったのかと思ったら、
「飛び降りるのは落下しているだけであって、飛んでるわけじゃないんだ。俺は落ちるのではなく、自由に飛びたいんだ」
 と、主張し、守を余計がっかりさせた。今まで彼方の空への異常心をわかっていたが、ここまでとは思わなかった。
「教室に帰るか」
 これ以上彼方と話していると自分までおかしくなりそうだった。
 守が歩き出すと、後ろから彼方がついてくる。
「もし、飛び降りるくらいなら、俺は海に身を投げるね。だって生命って海から生まれてきたんだからさ。それに海の青ってきっと空の青と似ているんだろうな」
 彼方の言葉を守は必死の思いで無視したが、それでも彼方は話しつづける。
「守は見たいと思わない?」
 彼方の言葉を聞き、守は我慢できなくなって怒鳴った。
「何言ってんだ、馬鹿!そんな大昔のことなんて関係ないんだよ。今人間はな、大地に生まれて大地で死ぬんだよ」
 しかし自分の言った言葉は彼方と同じくらいくだらないものだった。守は恥ずかしさをごまかすように歩く速さを早めた。
 その背中を見て彼方は悲しそうに目を伏せた。

 その夜、守は日課になっている犬の散歩をしていた。
 彼方のことを思い出し、守は顔をしかめる。
 実は放課後、いつも一緒に帰っている彼方を置いて、1人で下校してしまったのだ。
 原因は昼休みでのことだ。彼方の言葉に、大きな怒りを覚えたからだ。
「何が『海に身を投げる』だ」
 簡単に言ってはいけない言葉だと守は思う。ふざけてならもちろんだが、本気で言われても困る。しかも、賛同を求められてはたまらない。
 そう思いながら、犬に引っ張られるようにして散歩をしていると、遠くに彼方の姿が見えた。
 ふらふらと歩く彼方に嫌な予感を覚えて、守は大声で彼方を呼んだ。
「彼方!」
 しかし、彼方は守に気づきもせず、歩いていってしまう。
 慌てて追いかけると、急に彼方の姿が消えた。
「彼方!」
 犬の紐を投げ捨て、守は彼方を追った。
 確か、彼方が姿を消した下には川が流れていたはずだ。
 守は躊躇もせず、川に飛び込んだ。
 彼方が川に飛び込んだことを疑いもしなかった。
 川は思ったよりも深く冷たかった。だが、守るには寒さを感じる余裕などなかった。凍えて固まってしまいそうになる体を必死になって動かす。
 彼方は川の流れに身を任せ、ただ頭上の水面を見ていた。守が彼方の腕をつかんでも水面から目を離さない。
 守はつられて、上を見た。
 水面は、空のようだった。海全体が空だった。ゆらゆらと体を水に任せれば、まるで空を飛んでいるような錯覚に陥る。
 月の光が微かに水の中にも伝わってきて、それが一層頭を麻痺させていく。
 守は、もうあらがうことができなかった。彼方の腕をつかんだまま、奥へ奥へと沈んでいった。



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