「…る。守」
 自分を呼ぶ声が聞こえ、守は目を覚ました。
「もうすぐ順番がくるよ」
 自分を呼んでいたのは彼方だった。
「ドキドキするなあ、やっと空を飛べるなんて」
 彼方は瞳を輝かせながら空を見上げる。
 何か重要なことを忘れているような気がする。守はぼやけた頭で上を見ると、空を飛んでいる人と目が合った。
 にっこり笑われて、声もでないほど驚く。
 大勢の人が泳ぐように空を飛んでいた。それは幻想世界のように美しい。まるで、夜の海を泳ぐ人々の群れを下からのぞいているような光景だった。
「きれいだ」
 呟いた彼方を見る。
 彼方は目を閉じて空と同調している時のような、いや、それ以上に幸せな顔をしている。空を飛んでいる人々だって、彼方ほど幸せそうな人はいない。
「彼方」
 不安になって彼方を呼ぶ。彼方が振り向いて安心する。
「俺たちの番だよ。行こう」
 列の終わりには1人の男が待っていた。
 彼方は、その男の前にひざまずく。男は彼方の頭上を円を描くように手を振る。守は怪しみながらも恐る恐る男の前にしゃがむ。男は彼方と同じことを守にすると優しく微笑む。
「さあ、飛んでみなさい」
「飛んでみよう、守」
 軽く地を蹴ると、彼方の体がふわりと舞い上がった。
 嬉しそうに空を飛ぶ彼方を見て、守は呆然となる。まさか本当に空を飛べるなんて、信じられない。
人が飛べることなどありえないはずなのに、彼方は飛んでいた。そのことが守には理解できない。
「守も飛んでみなよ」
 頭上で彼方が叫ぶ。
「飛べるわけないだろ」
 負け時と守も叫ぶ。
「人は飛べないんだ」
 守の断固とした言葉に、彼方は溜め息をつく。そして、守の前に降り、守の手を取ると再び飛んだ。
 それは不思議な感覚だった。重力を無視している自分の体。宇宙の理がでたらめになっている。
 確かに空はきれいだけど怖かった。地に着かない足がおちつかない。真っ暗な空に吸い込まれてしまいそうだ。
 彼方は顔に笑みを浮かべていた。こんな微笑み、誰も見たことがないだろう。まるで人ではないみたいだ。
「彼方!」
 不安で不安で仕方ない。いつも空を見る彼方を呼んでいたのは、彼方が空へ溶けていってしまいそうだったからだ。
 今はその不安がいつも以上に強い。
「今日に昼さ、海の青の話をしただろ」
 顔を合わせた途端、彼方が話し出す。
「それも、この空を飛ぶ感覚も言葉にならないよ。人には伝えられない、でも…」
「そんな話はいいから、さっさと降りようぜ。やっぱり足が地に着いていなきゃ不安だよ」
 守は早く降りたくて、彼方の言葉を遮る。
「そうだね」
 彼方は一瞬、悲しそうな表情をすると返事をし、ゆっくりと降りた。
 地に足が着き守るがほっとすると、彼方は1人でまた空へ飛んでいってしまう。
「おいっ、彼方!!」
 慌てて手を伸ばしても彼方には届かない。
 彼方はドンドン上昇していく。
「彼方!彼方!!」
 呼び叫んでも彼方は止まらない。
 やがて彼方の姿が見えなくなった。先ほどまで飛んでいた人もいつのまにか姿を消している。
「あなたは飛べなかったのですか」
 人を飛ばした男だけが立っていた。
「安心して下さい。大抵の人はそうですよ」
 ニッコリと男が笑う。
「ふざけるなっ!」
 守は膝を曲げ、強く地を蹴る。すると、守の体は浮かび上がり、その勢いのまま彼方に近づいていく。
「彼方」
 がっしりと彼方の腕をつかむ。
「守、どうして飛んでるの?」
 彼方は目を大きく開け、守を見ている。彼方は守が飛べるとは思わなかった。守にとっても、それは同じ気持ちだ。だが、今ここで彼方をつかまえないともう一生彼方に会えないと感じた。彼方をつかむために、どうしても飛ばなくてはならなかったのだ。
「帰るぞ」
 有無を言わさぬ調子で彼方を下へ引っ張る。
「わかった」
 深く溜め息をつき、彼方と守は少しずつ降下していく。
 難しい顔をした守の顔を彼方は覗き込む。
「守は空をきれいだと思った?」
「きれいだと思ったよ」
 守の言葉に彼方が驚く。
「守がそう言うと思わなかった」
「なんでだよ」
「だって、守は俺が空を飛びたいって言うたび怒ってたじゃないか」
 責めるように言う彼方に守は笑った。
「怒ってたんじゃない。不安だったんだ」
「不安?」
「彼方がどこかに行きそうで」
 普段ならいえない言葉もするりと言えてしまう。きっと今しか言えない。
 彼方の顔が大きく歪む。涙をこらえて彼方は微笑んだ。
「いかないよ。どこにも」
「彼方が言っても信じられるかよ」
「もういかない」
 彼方は守を真っ直ぐ見る。
「約束する」
「ああ」
 守は安心して頷いた。この約束は信じられると思った。
「でも、やっぱり俺は大地がいい。なじんでて安心する」
 守の言葉に彼方が笑みをもらす。
「そうだね。空も海もきれいだけど何もない。大地はきれいではないけれど、いろんなものがある」
 2人は黙って空を見上げた。
 彼方が悲しそうな顔をして空を見ているのは初めてのことだった。遠くなっていく空に手を伸ばし、宙をつかむと胸に引き寄せる。
 静かな時間は過ぎ、気がつくと2人は地に立っていた。
 守は彼方が空を見つづけるのを黙って見守った。やがて彼方がゆっくりと空から瞳をそらす。
「帰ろう」
 守が彼方に手を差し出す。
 彼方は黙って手を取った。
 今までの不安は守の中からすっかり消えていた。
 初めて彼方を隣りに感じることができた。

 学校に着くと普段通り、彼方が窓の外を眺めている。
「どうだった?」
 守が聞く。
「親に泣かれた」
「俺は殴られた、無実なのに」
 どこに自殺している友人を助けて怒る親がいるだろうか。
 納得がいかない顔の守に彼方は、
「日頃の行いが悪いからだよ」
 と、からかうように言う。
「それは認めるけどさ」
「やっぱり」
 大きな笑い声を彼方は上げる。
 彼方のその笑顔が人間くさくて守は大満足だ。



(終)

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