door-reiya11
目を開けると真っ暗だった。太陽は完全に沈み、空には半分に切り取られた月が光り輝いていた。
どうやら泣き疲れて眠ってしまったらしい。俺は立ち上がり、洋服についた埃を払いながら掛け時計を見た。
「…9時…」
時刻を知り、俺は呆然となった。この時刻なら学校は閉まっているのではないだろうか。よく見回りの先生に見つからなかったと感心するばかりだ。
俺は鞄を持ち、部室を出た。裏門からこそこそと出ると、そこには待ち構えていたかのように透子先輩が立っていた。
「おはよう、翔君」
全てお見通しとばかりに透子先輩はニッコリと笑う。俺は気恥ずかしさに赤くなっている目をこすった。
俺は夢の中で唯の正体と共に透子先輩の正体も思い出していた。透子先輩は俺のdoorを開けてくれた人、俺の中から唯を作ってくれた人だったのだ。
俺は芹花と離れ離れになって孤独に震えていた時に交通事故を起こした。その時、意識不明となった俺の意識の奥底で助けの手を差し延べ、俺の中のdoorを開けてくれたんだ。
doorとは何なのか。それは俺にもよくわからないけど、きっと祈りとか願いなんだと思う。
「唯ちゃんを解放してくれてありがとう」
いきなりお礼を言われて俺はびっくりしてしまった。
「唯ちゃんは怜哉君のことで悩んでいる翔君を見て辛そうだったわ。自分が足を引っ張っていると思ったのね」
透子先輩が俺の中にいる唯を見ているようで、俺はそっと自分の胸に触れた。ここに唯がいるのだろうか…
「…俺は唯を苦しめていただけだったんですね。唯は俺のために尽くしてくれたけど、俺は唯に何もしてやれなかった」
それは俺の後悔だった。俺は唯が消える前に唯が喜ぶ何かをしてやりたかった。懺悔とか償いとかではなく、純粋にそう思ったのだ。しかし、もう、それはかなわぬことだった…
「そんなことないわ。唯ちゃんは翔君といて幸せそうだったもの」
透子先輩の慰めは気休めにもならなかった。唯が幸せだったなんて信じられない。唯は俺に振り回されて疲れきった揚げ句、見捨てられた哀れな人形だとしか思えない。
「俺は唯にいろんなことを教えてもらったんです。信じること、優しくすること、人を好きになること…唯がいなければ、きっと俺は一生人の感情を知ることがなかったんですね」
唯に出会うまで俺は暗闇にいた。そこには誰もいなくて、俺は自分が人であることを放棄していた。生きていくのが辛かったら、俺は自分を死んだことにしていたのだ。俺を蘇らせてくれたのは唯だった。唯が俺を人間にしてくれたんだ。
「それがあの子の使命だったのよ。あの子は立派に使命を果たしたわ。でも…」
透子先輩が表情を曇らす。
「あの子でもあなたの閉ざされたdoorを開けることができなかった…」
透子先輩の言葉に俺はショックを受けた。唯が開けることのできなかったdoor?一体、それは何なんだ。
俺が透子先輩に目で訴えると透子先輩は小さな笑みをこぼし、教えてくれた。
「あの子が開けられなかったdoor、それはピアノよ」
「ピアノ…」
予想もしなかったことに俺は目を見張ったが、思い起こしてみれば唯がピアノに触れたいと言っても俺はそれを許さなかった。唯の頼みなら何でもかなえてあげていた俺が唯一断ったのはピアノだけだった。
「もし、あの子に心残りがあるとしたらピアノのことでしょうね」
唯の心残り…それをかなえてあげることが、俺が唯のためにできる唯一のことなのかもしれない。
「透子先輩!」
俺は唯のためにピアノを弾こうと思った。今までの感謝の思いを込めたピアノの響きを唯に届けよう。
「俺、唯の為にピアノを弾きたいんです。唯を消すのをもう少しだけ待ってくれませんか?」
透子先輩は俺の決意を待っていたかのようにほほ笑む。
「いいわ。ただし1週間しか待てないわよ」
「ありがとうございます」
俺は深々と頭を下げた。1週間の内にピアノを弾けるようになるか自信はないがやるしかない。唯のために俺自身のためにも必ずピアノを弾けるようにしてみせる。そうしなければ、いつまでも俺は弱いままだ。前へ進むために俺が強くならなければ駄目なんだ。
「もう日常生活はできないから1週間後の放課後、学校の音楽室で待ち合わせでいいかしら?」
俺は透子先輩の提案に異論はなかったのでそれで決定すると、俺たちは別れた。
俺は帰り道を走った。1週間後にピアノを弾けるようになっているのだろうかという不安を焦りに押されるように速度が増していく。そんな様子を欠けていくか満ちていくか判断できない半月が見ていた。
学校でピアノの練習をするようになってから6日目、ついに約束の前日になってしまった。
俺はまだピアノを弾けずにいる。弾いていると恐怖に体がすくんでしまい、曲を中断させてしまうのだ。
「くそっ!」
強張って指がとまってしまった。昨日もここが限界だった。
深く深呼吸をして俺は再び弾き始める。しかし何度弾いても昨日のように同じところでとまってしまう。
焦りが強くなっていく。約束の日は明日、今日弾くことができなければ絶望的だった。
目を閉じてピアノに集中しようとするが、心の奥に住み着いている恐怖がそれを妨げる。弾きたくない、弾きたくないと体全体が叫んでいた。
「っ!」
俺は鋭くうめき、ピアノから手を離した。まるでピアノから電気が走ったような痛みが襲ったのだ。ビリビリと震える両手を見て、俺の顔が歪む。
俺はこれほどまでにピアノを拒否するのか、俺にはピアノは弾けないのか…
かつて俺は天才の名を欲しいままにしていた。昔は弾こうと思わなくても指が勝手に動いたのに、今では命令しても動きはしない。俺は本当にピアノが弾けなくなってしまったんだ。
がっくりとうなだれると突然、音楽室の扉が開いた。足音は真っ直ぐ俺に近付いていた。先生だろうと思い顔を上げたら、真剣な表情をした怜哉が俺を見下ろしていた。
「…」
俺は驚いて声も出なかった。怜哉とは告白された日から何も話していない。俺は避けていたし、怜哉も俺に近付こうとしなかった。俺は唯との決着がつくまで怜哉とは話さないつもりだった。それが俺のけじめだった。
「翔がピアノの練習をしてたのをずっと聞いてて、昔の勘が取り戻せないみたいだからこれを持ってきたんだ」
そう言って怜哉が差し出したのはカセットテープだった。古い物でだいぶくたびれていた。
俺はそれを受け取っていい物なのか判断できずに戸惑っていると、怜哉がピアノの上にカセットテープを乗せた。
「役に立つかもしれないから聞いてみてくれよな」
怜哉は明るく笑うが俺は何も返事をすることができなかった。怜哉は苦笑すると来た道を引き返そうとした。
「怜哉!」
慌てて声をかけると怜哉が振り返った。怜哉と目が合う、それだけで俺は情けないぐらい動揺してしまった。
「明日…明日の放課後、ここに来てくれないか?」
椅子から腰を浮かせ必死に頼むと怜哉は嬉しそうに目を細めた。そして頷くと怜哉は音楽室から出ていった。俺は怜哉が出ていくのを見て、力が抜け椅子にもたれかかった。
怜哉と向き合ったのは思い出せないくらい久し振りのような気がする。実際は1週間も経っていないのに怜哉は変わっていたように見えた。どこがというわけではないが、明るく笑う表情や嬉しそうに細める目が前よりも俺の心を揺さぶってくるのだ。それは単に俺の怜哉を見る目が変わっただけなのだろう。
「怜哉…」
名を呟けば、胸がギュッと締め付けられる。あんなにひどいことを吐いたのに怜哉は俺を嫌わなかった。怜哉はいつも遠くから俺を見つめていたのだ。俺も同じように怜哉を影から見ていたから、それが痛いくらいわかった。怜哉の健気さに俺の胸はジーンと震えるのだ。
早く怜哉を抱き締めてあげたかった。ごめんと謝って自分の気持ちを伝えれば、怜哉はどんなに喜んでくれるだろう。それでも唯の心残りをかなえるまでは俺の想いは打ち明けないと決めたから…
俺は立ち上がり、怜哉の置いていったカセットテープを手にとった。なにが入っているのだろう。ピアノを弾くのに役立つというのだから、曲でも入っているのか。
どこかで見たことがあるような気もしたが思い出せない。ラベルにも何も書いてなく、俺は何が入っているのかわからないままカセットテープをデッキに入れ再生した。
「…これは…」
聞いて俺は絶句した。カセットテープには想像通りピアノの曲が入っていたが、それは簡単な曲で子供が弾いているような稚拙なものだった。そしてその演奏者は俺だった。
このカセットテープは昔に俺が自分のピアノを録音して怜哉にあげたものだった。怜哉は喜んで一生の宝物にすると言っていたが、まさかいまだに持っているとは思わなかった。
『翔ちゃんのピアノ、僕とっても大好きだよ』
不意に両手を広げてほほ笑む小柄の少年が脳裏に浮かぶ。
『わあ〜、これを僕にくれるの?ありがとう、一生の宝物にするよ!』
カセットテープをあげた時、怜哉は想像以上に喜んでくれた。それこそあげた俺が嬉しくなるくらいのはしゃぎようだった。
あの時はピアノを弾くのが楽しかった。ただ自由に思うがままに弾いていた。誰に指導されるわけでも、命令されるわけでもなく自分の感性で、自分だけの音色を奏でていた。
『ねえ、もっと聞かせてよ』
怜哉は体が弱かったから、いつも家で遊んでた。俺の家にきてピアノをせがむんだ。弾き終わっても、もっともっとってなかなか終わらせてくれなかった。俺はそれが嬉しくて、嬉しくて…
急に何かが開けた。厚い雲が晴れていったような解放感を感じた。
俺はゆっくりとピアノに振り返った。見るとピアノが輝いていた。俺を呼ぶように光を発している。俺は誘われるようにピアノに座り、鍵盤の上に指を乗せた。すると今まで拒否していた指がまるで踊るように鍵盤の上を滑っていくではないか。
これだ!この感覚だ!
俺が楽しんでいた頃の、熱中していた頃の感覚が一気に蘇る。もはやピアノは苦痛ではなく、最高の快楽だった。
曲を弾き終わっても俺の体は感動に震えていた。高揚感に包まれ俺は感極まって泣いてしまった。涙は静かに熱さを持って流れ出る。
「唯…」
だが、これが唯との決別だと思うと悲しかった。俺の閉ざされたピアノのdoorを開けたのは唯ではなく怜哉だった。唯に癒せなかった傷を怜哉が癒したのだ。それは完全に唯の役目が終わったことを意味していた。
俺は泣き続けた。明日消えるであろう唯を思って泣いた…