部室は校舎から少し離れたところにある。部室がいくつも固まっているそこを部室棟と呼ぶらしい。
 園芸部の部室を見つけ、ノックをすると中から声が返ってきた。
「翔君に怜哉君じゃない、久し振り」
 出迎えてくれたのは透子先輩だった。
「高校入学おめでとう。それで園芸部に入ってくれるのかしら?」
「もちろんでしょ!」
 怜哉の元気のいい答えに透子先輩がほほ笑む。
「よろしくお願いしますよ」
「こちらこそ。新入部員歓迎するわ、幽霊部員でもね」
「厳しいなぁ」
 ニッコリ笑う透子先輩に俺は苦笑しながら頭をかいた。
 透子先輩のこういうお茶目なところはけっこう好きだ。透子先輩はほんわかしたムードの持ち主で、かわいいお姉さんって感じなんだ。一緒にいると穏やかになれる不思議な人なんだよな。
 俺も怜哉も透子先輩のことが大好きで、部活ではなく透子先輩に会うのが目的で部室に遊びにいってた。たぶん、園芸部もそんな形になるんだと思う。
「あら、そう言えば噂の唯ちゃんは園芸部に入らないの?」
「いえ、入ると思います。俺と同じ部活に入りたいって言ってたから」
 怜哉が横でニヤニヤ笑っているのに気付き、俺は透子先輩に気付かれないように怜哉の足を踏み付けた。怜哉が呻き声を上げたが無視する。
「今日は用事があるらしく、部室に来れなかったんですよ」
「そうなんだ、残念。会うの楽しみにしていたのにな」
「大丈夫だよ、透子先輩。そのうち嫌っていうほど唯ちゃんに会えるさ。なにせこの2人はいつもべったりラブラブなんだから」
 透子先輩は興味津々という感じで怜哉の言葉に耳を傾ける。
「やっぱりそういう仲だったんだ。そうだと思ってたの」
「違いますよ、そんな仲じゃありません」
 俺は今日で何回この言葉を口にしたんだろう。いい加減うんざりだ。
「あら、そうなの?」
「そうなんです!」
 きっぱり否定すると、わかってくれたのか透子先輩は頷いてくれた。
「まぁ、とにかく早く唯ちゃんを連れてきてね」
 透子先輩の目には相変わらず好奇心に満ちあふれていた。どうやら俺の言葉は信じてもらえなかったらしい。
 俺はにやけっぱなしの怜哉の足を前より強く踏み付けた。全部お前のせいなんだよっ!
「2人は相変わらずみたいね」
 そんな俺の動作に気がついたのか透子先輩は優しいまなざしで俺たちを見つめる。
「まあ、そんなとこです」
 透子先輩の目が照れくさくって、俺は言葉をぼかした。
 俺と怜哉がこんな砕けたやりとりをできるようになったのも、つい最近のことだ。昔の怜哉はいじめられっ子で守らなければならない存在だったから、優しい態度で接していた。
 だけど、俺が怜哉に優しい態度を取るほどの余裕があったのは、きっと芹花がいたからだと思う。芹花が引っ越してから俺は精神的に不安定で怜哉に構ってる暇がなかった。
 それなのに怜哉は俺が自分の事で必死になってる間に、勝手に強くなっていた。芹花が引っ越した小学6年から、ピアノが弾けなくなった原因の交通事故で入院先で唯に出会った中学2年の3年間、俺の心配を1番してくれたのは怜哉だった。
 透子先輩のいる囲碁・将棋部に入部を勧めたのも怜哉だ。それからだよな、怜哉とこんな風な友人関係を持つようになったのは。
「翔君は良い友人に恵まれたわね」
 素直に頷きかけて、俺はやめた。ここで怜哉を喜ばせても、つけあがるだけだ。
「…俺は何もしてないよ」
 しかし怜哉は思っていたような反応を見せなかった。暗い表情で怜哉は静かに笑った。自分を嘲るように。
「怜哉?」
 怜哉の様子は変だった。怜哉のこんな暗い表情は初めてだ。
「そんなことないわよ。怜哉君は翔君を支えてたのよ。翔君だって、怜哉君に感謝している。ただ素直になるのが照れくさいだけだわ」
 透子先輩は俺に目配せをする。
「そうだよ…俺、怜哉に感謝してるぜ」
 語尾が小さくなってしまった。素直な気持ちを言葉にするってことは、照れくさくて恥ずかしい。
「…そっか」
 怜哉は嬉しそうに笑った。その笑顔は、いつものふざけた笑いではなく心からの喜びの笑顔だった。それでも怜哉から暗い感じは消え失せなかった。
「ごめん。俺、先に帰るわ」
「怜哉…」
「さっきの言葉嬉しかったぜ」
 そう言いながらも、怜哉は俺の言葉を信じきれていないことがわかった。俺には怜哉の態度が示す意味がわからなかった。
 俺は怜哉の後ろ姿を見送り、溜め息をついた。
「…俺、何か気に障ること言ったかな?」
 透子先輩は曖昧に首を傾げた。
「よくわからないけど、今はそっとしておくのが良いと思うわ。大丈夫よ、怜哉君も明日になれば普段通りに戻ってるわ」
「そうですね…」
 そうなって欲しいと思いながら、頷いた。怜哉は普段馬鹿みたいに明るいから、暗い表情を見せられると心配になる。明日には明るい怜哉に戻っていてくれればいいのだが…
「ところで、翔君。これから何か予定はあるのかしら?」
「いえ、ありませんけど」
「それじゃあ、お願いできるかしら」
 上目遣いに見上げる透子先輩は甘えるような声を出した。
「この植木鉢を生徒会室に届けたいんだけど」
「げっ」
 植木鉢を見て思わず俺は声を漏らしてしまった。
「これをですか…」
 その植物は観葉植物らしく、かなりでかかった。こんなものどうやって運ぶんだよ…俺が運ぶのか?
「生徒会室って何階にあるんですか?」
 恐る恐る聞くと、透子先輩は可愛らしく指を3本立てた。
 さ、3階!これを持って3階まで階段を上るのか!
「お願い、翔君。私じゃ持っていけなくて困ってたのよ」
 そりゃ、透子先輩が持っていくのは無理だろう。だからって俺が持っていくのか!?下手すりゃギックリ腰になるぞ。
「お願い!」
 透子先輩の必死の頼みに俺は深くうなだれる。俺が持っていくしかないんだろうな。部室に他の人いないし…
「うっ!」
「大丈夫、翔君?」
 真っ青になった俺の顔を見て透子先輩が心配そうに声を掛ける。
 俺は構わず部室を出ようと扉まで進む。透子先輩は慌てて扉を開けてくれた。
「生徒会室まで案内して下さい」
 息を乱しながら声を出すと、透子先輩は素早く誘導し始める。
 体力がつきない前に植木鉢をさっさと運んでしまおうという俺の考えに気付いてくれたのか、透子先輩は迅速に俺を生徒会室まで誘導してくれた。
 ようやく生徒会室に着く頃には掌は真っ赤に腫れ上がっていた。指先の感覚など全くない。
「ありがとう、翔君。生徒会の人と少しお話があるから、隣の教室で待っててね」
 俺が頷くのを見て、透子先輩は生徒会室に入っていった。
 隣の教室に入り適当な椅子に座る。疲れた体を机に突っ伏したまま何気なく教室を見回す。
「!」
 その視線がある物を見て凍り付く。
「…何でこんな所に…」
 体が震えだす。俺はそれに恐怖を感じていた。
「…何で、ピアノが…」
 普通の教室であるはずなのに、窓側の端っこにピアノは置かれていた。スペースを多く取るピアノは我が物顔で教室を占領しているように見えた。
「何で!」
 苦しそうに吐き出す息と共に声は漏れた。
「もう、関係ないのに…!」
 もうピアノとは縁を切ったはずなのに…どうしてピアノがここにある?どうしてピアノから逃れられなんだ!
「苦しい…」
 心臓をギュッと鷲掴みにされたような激痛に涙が滲む。
 そこにあるだけのピアノが俺を苦しめる。こんなにも俺を追い込ませる。
 もう、弾く必要のないピアノなんか怖くもないはずなのに、あの時の苦しみを体は、心は忘れてくれない。
 初めはピアノを弾くことが好きだったような気がする。自由気ままに弾いていた気がする。
 だけど上手くなってゆくと親が口出しするようになった。それから、ピアノが嫌いになった。当たり前だ、強制されて弾くピアノを好きになれるはずがない。
 そのうち天才と呼ばれるようになって、親は天狗になって親戚や近所の親に自慢し始めた。それに比例するようにいじめられたり、親しかった友人が遠ざかっていったりした。
 ピアノは俺から大切なものを奪い去っていった。俺はピアノが上手く弾けても嬉しくなんかなかった。
 ピアノなんて弾きたくなかった。だけど、反抗することなんかできなかった。周囲が俺に期待していたのは知っていたし、ピアノが俺を束縛していた。弾かなければいけないという脅迫観念が俺の中にはあった。
 永遠に続くと思われた地獄の日々は、呆気なく幕を閉じた。交通事故でピアノを弾けなくなってしまったのだ。
 親の落胆は激しかったけど、俺は心底嬉しかった。もう、ピアノを弾かなくていいという喜びでいっぱいだった。
 その日から、俺はピアノに近付かないように生きてきた。神経質なほど気をつけてきたのに、まさかこんなところで奴と出会うなんて…
 額の汗がゆっくりと頬を伝う。異常なまでにピアノに引きつけられる。目を逸らせと警告する脳を体は聞いてはくれない。
 緊張がピークに達していた。これ以上ここにいたら、倒れてしまうに違いない。
 じりじりと時は過ぎていく。意識はもう遠くにある。そろそろ限界が近かった。
「翔君」
「!」
 不意にかけられた言葉に、俺の意識は一瞬で戻ってきた。
「もう少し時間がかかりそうなの。悪いけど先に帰ってもらえるかしら?」
 ゆっくりと透子先輩に顔を向ける。すまなそうな透子先輩に俺は機械的に頷いた。
「ごめんね」
 もう一度謝り透子先輩は生徒会室に戻っていった。
 教室は再び静寂に包まれた。後ろから伝わる奴のオーラに怯えて、俺は椅子を蹴飛ばして立ち上がり、何かに追われるように逃げ出した。決して後ろを振り向くことなく…
(to be continued)



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